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13-9.第4回目(1月30日)

この日の対話書は「幕末外国関係文書之一八」のP615〜P640までを占め、かなりのボリュームです。開港地、貿易方法についての内容がほとんどです。

冒頭は日本側から「ミニストルの居宅というのは、どれほどの広さがあればいいのか」「彼が出かける場合には、どのくらいの従者を引き連れていくのか」といった、ハリスからみればたわいもない、しかし日本側からみたら切実な質問が出されています。

ハリスは、あくまでも個人の意見であり、一概には言えないがとことわりをつけて、自らが見聞きした他国の事例を答えています。このとき、日本側から華盛頓府わしんとんふの光景も、ほどなく見物いたし候様そうろうよう相成あいなく」と、いずれワシントンを見にいくという言葉が出ています。

ヒュースケンによれば、これは岩瀬の言ったことです(出所:「ヒュースケン日本日記/青木枝朗」P245)。後述しますが、岩瀬はこの条約の批准にアメリカへ渡るとハリスに申し出て、感激させることになります。

開港場をめぐる応酬その4

一転、前回の続きに話題が移ります。日本側は、「港の一件はとても難しい」と口火を切り、とはいえ「今回、特別の理由をもって江戸・品川の2ヶ所を期日を決めて開くようにする。ただし、商人などの居留地は神奈川・横浜の間としたい」と述べました。

ハリスからは、即座に京都・大坂はどうかと聞かれ、「その他の場所は譲歩してほしい、そこにこだわられたら合意が難しい」と返します。

さらに、「私だけの問題ではなく、他の諸国とも関係することなので、譲歩してほしいと言われても困る」「いや、こちらもこの両名だけでなく、日本全国にかかわる問題なのだ」と応酬が続きます。

ハリスは、「前回は拒絶、今回は許す」という日本側の態度を非難しますが、日本側も「こちらも商人のような駆け引きをしているのではない。大変な苦心をして江戸・品川を開くことを返答しているのだ」と返答しました。

大阪開場問題

ハリスは、話をかえ「大坂はなぜ開かないのか」と尋ねます。日本側は大坂には触れず、「一度に複数の場所を開く事を条約に掲げられたら、人心が混乱して政府として非常に困る事態となる。わが国政府のことは、貴殿には関係がないと言うかも知れないが、こちらの事情も斟酌してほしい」と、前回同様の内容を繰り返しました。

ハリスはなかなか引き下がりません。「貴国政府は世界一権ある国であり、人心も統制しているではないか」とハリスは続け、「それは、あくまでも人々が旧律を遵守しているからで、それを急に変えさせることは容易ではない」と日本側は答えます。

江戸の開場時期ならびの居留問題

ここで、話題は江戸を開く時期と、アメリカ人居留問題に移っていきます。

日本側は、ハリスの質問に答えて、江戸を開くのは今から5年後、すなわち1863年と告げ、商人の居留地は神奈川・横浜とし、江戸へはただ商売のために出向くことのみを認めるというものでした。

ハリスは神奈川と日本橋の距離(7里)を確認、それを問題視して「それでは商売などできない」と猛反対します。日本側は、申し出のあった品川は、港として物理的に不適当な事を再度説明、神奈川へ停泊しなければならなくなるため、神奈川を開港地としてそこに、大商人たちを呼び寄せて貿易をさせることとし、江戸・品川は単に遊歩・買物などに限っての場所としたいことを述べました。岩瀬の目論見を再度述べたわけです。

ハリスは、開港場所選定のポイントは、荷上げの便だけで決まるわけではなく、商人にとって利となるか否かで考えなければならないと、神奈川よりも断然江戸の方が有利なことを述べますが、日本側も神奈川については引き下がりません。

「神奈川を開けば、江戸の商人は先を争ってそこにやってくることは明らかで、商売をやるとなったら、多くの倉庫が必要になるが、神奈川ならそのための土地も十分にある」と、神奈川の地勢的な好条件を述べた後、

「いずれわれわれも大船を建造して海外へ渡ることも考えているが、その船は神奈川を停泊地とすることになる。商売を広くおこなう場所を神奈川とすることは、何の不都合もない」と説明します。

江戸にこだわるハリス

ハリスは、それでも「港は神奈川でもいいが、商売はやはり江戸でなければならない」と納得しません。

日本側も「開港後には多くの商人が集まり、すぐに大都会になることは疑いがない」と、続けました。これは、必ずそう仕向けるといった岩瀬の決意でしょう。

前述したように大坂の利権を江戸に移すことが彼の目論見でもあったわけで、そうするためにはそれが必要条件でした。そして、「大都会になる(する)」ということは、この後まさにその通りになったわけです。

しかし、ハリスは納得しませんでした。

江戸か神奈川か、ハリスは大市場である江戸で手広く商売ができなかったら、商人は儲からないことを述べたのに対し、日本側は江戸と神奈川を結ぶ「問屋」があるので、そのような心配は無用だと言い、日本における問屋の説明をするのですが、その理解ができずに議論がかみ合いませんでした。

ハリスの日記を見てみましょう。

「アメリカ人の販路を問屋に限ることは、事実上その階級を保護するために専売制度を設けるに等しいこと。身分と富の所有者たる各大名は、毎年ではないにしろ、江戸に住み、凡てこれらの階級の家族は、そこに居住している。江戸だけで売り捌かれる外国の品物の量は、貿易の初期においては江戸を除いた日本全国の分よりも多いだろう。その品物の大部分は、日本人には名前さえも知られていない。日本人は先ずそれらの品物を見て、その用法などを習得しなければならない。一人が一つの品物を買えば、その後他の人々にそれと同じ品物をすすめるところの方便となるだろう。これをするには、アメリカ人は彼らの品物を日本人に見せるため、江戸へ持って来なければならないし、このためには勿論、アメリカ人が江戸に倉庫と住居を所有することが必要になってくること。江戸と大坂―すなわち、日本の二大都市からアメリカ人を閉めだすかぎり、自由貿易の実験を試みるなどと考えるのは愚であること(後略)」(「ハリス日本滞在記(下)/坂田精一訳」P141)

「問屋」と神奈川の利点の説明

ハリスは、アメリカ人が何の制限もなく江戸で店を開き、そこで自由に商売をおこなうことを望んでいたのですが、江戸での商売はもちろん、商人の江戸居住も認めたくなかった日本側は、神奈川に「問屋」が結集するので、彼らがアメリカ人との間で商売(大量販売、大量買取)をも引き受けるし、同じく江戸在住の富裕層諸大名等にまで売り捌くから、儲からないはずがないと説明します。

この時点で日本側が許可していたのは、外国公使などによる江戸市中での日用品の買い物程度で、大きな商取引はすべて神奈川としたかったのです。

ハリスは「専売制度に等しい」と書いていますが、日本の商慣習を正確に理解できていませんでした。「役人が介在するのではないか」と疑問を呈しています。ハリスは貿易が日本にとって多大な利益のあることを繰り返し説明し、それには江戸を開くことが必須であり、且つ商人も江戸に住まなければならいことを力説するのですが、日本側はそもそも神奈川で事足りるというのが前提なので、議論が収束することはありませんでした。

ただ、品川の適さないことをハリスは納得し、その地が開港地からは外れました。

日本側はシャム(現タイ王国)の事例もハリスに尋ねました。ハリスはシャムとの条約を結んだ張本人です。日本側へは、ハリスから同国との条約が既に提出されており、それを読み込んだ上で、商売の場所と居住地についての質問でした。

ハリスは詳しく回答し、シャム同様の条約を結びたいと回答を終えました。

この日の合意事項は、ハリスが「品川」を撤回したのみとなり、次回は明後日2月1日となりました。

続く

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