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13-17.第8回会談(2月6日)その2
大坂開港問題
次いで議題となったのは、再び大坂開港についてでした。
2月2日の会談で、堺を拠点として大坂への日帰りによる商売を認めてほしいといったハリスの要求については、日本側はそれを認め、かつ大坂・堺間に1ヶ所宿を設けて大坂で病気になったアメリカ人はそこに止宿させるという事を申し出ます。
これは、ハリスから「大阪に逗留すら許さないのなら、そこで病気になった人間はどうするのだ」と激しい抗議があったことによる折衷案です。ただこれは、大阪に逗留すらを認めず堺から通うべしとした日本側に対し、その不都合を病人発生という例を持ち出したまでのことで、ハリスにとっては瑣末な問題だったのを日本側が真剣に対応してしまったということでしょう。
そしてそのあと、大坂開港が適用される期日を1865年1月1日からとしたいと提案しました。「外場所とは訳違ひ、政府におひても取扱ひがたき意味もこれ有る次第につき」(「近世日本国民史/堀田正睦(四)/徳富蘇峰」Kindle版P386)だからだと言うのです。
この期日は江戸を開くより2年も後のことになります。
「右の通り年限相延ばし候は、余の儀にこれ無く、江戸は一八六三年第一月より開き候筈につき、先ず右を以て、都府のものへ、外人の情状を見慣れさせ、人心居合ひ方の相附き候上にて、皇居近くの地に及ぼし候事、国中に於ては、尤も意味合これ有る事に候」(徳富同書P386)
日本側にとって苦衷の申し出だったと思います。「余の儀にこれ無く」とは、井上・岩瀬の意見ではなく、城中での紛糾によるものであったことが伺えます。
ハリスはこれに対し、「以前、江戸は五年後、大阪・堺は三年半後に開くことを申し出、その後、議論の中で京都と国内旅行の件は取りやめたが、今になってそのように期日を引き延ばすのは、どんな理由があるのか納得できる説明が欲しい」(出所:徳富同書P387)と返しました。
日本側は「開港期日について、そう申し出があったのは認識しているが、我々はそれを承諾してはいない。期日は今初めて提案するのだ」と反論します。ハリスは、大坂居留が認められるのであれば京都は除くと言ったまでで、大坂も拒むのであればあらためて京都及び旅行問題を俎上にあげると強烈に抗議をします。
ここにはハリスの一人合点も含まれており、彼は大坂居住に関しては認められていたと考えていたのです。ほぼ喧嘩腰といってもいいでしょう。ハリスの日記にはこうあります。
「そして、依然としてアメリカ人がその市内(筆者注:大坂)に居住するのを拒んだ。私は憤慨した。前頁に、私は条約の進行を阻む二つの難問題の撤回に同意するについての条件を記した。私はこれを基礎にしてこの問題が調整されるものと、全く思い込んでいた。私は彼らに、彼らの提案は甚だ不快であるから。それを二度と私に通訳させることを断じて承知しないと告げた。私は彼らの不誠実をきびしく難詰し、第七条の条項(旅行の権利)と、更に京都に対する要求をも、蒸し返すと通告した」(「ハリス日本滞在記(下)/坂田精一訳」P155)
日本側もこのハリスの剣幕に驚いたのかも知れません。その後、ハリスは大坂で商売を許すというのは確かなことかと、再度確認をとります。商売だけは許すとの日本側の回答です。さらに、朝から夕方までは大坂で商売できるという理解でいいかと尋ね、その通りだと返されます。
ここで、ハリスは「右の御沙汰は、亜墨利加大統領及び大国中の人民に対せられ、汝は卑賎のものに候間、たとひ大坂え立入り候とも、病気の外は止宿相成らずと仰られ候も同様の事に御座候」(徳富同書P390)と述べ、「これを書面にして本国へ送れば、本国の者は必ず激怒する。世界中でそんな扱いをする国はない」と続けました。
これには「既に江戸えも止宿致させ候様、談判いたし居り候程の儀、何とて亜人を賤む筋これ有る可きや」(徳富同書P391)と、日本側は否定します。ハリスは納得しません。
日本側は続けて、「大坂の儀は、かねて申し入れ候通り、兎角むづかしき意味合多く、何分速やかに挨拶致し難く」(徳富同書P391)と重ねて述べました。京都に近いといった理由で日本側が大坂を拒むことをハリスは理解できなかったと思います。
ハリスは、江戸は第一、京都は第二、大坂は第三の都市だと思うが、なぜ江戸は開き、大坂を拒むのか、その理由が知りたい、私には理解できないと続けます。
日本側は「大坂は皇居最寄り、殊に人心居合はず候間、相成り難き」(徳富同書P393)と返答するしかなく、これについては再度評議した上で回答すると述べました。
ハリスは、言われた処置ではアメリカ人を軽蔑するものとしか受け取れないため、到底承服できないと繰り返しました。日本側は何をもって軽蔑と捉えるのかと言い返します。「昼なら許可するが夜は許可しないということは、アメリカ人を卑しんでいる証拠であるし、その理由が理解できない。何か他に理由があれば伺いたい」とハリスは述べました。
日本側は「二百年来の鎖国、何分急遽には参り難く」(徳富同書P394)としか言うべきことがありませんでした。
ハリスは、それでは決してヨーロッパの国々が承服しないし、混乱を引き起こしてしまうとの恫喝も忘れませんでした。日本側は大坂についての譲歩を望みますが、ハリスからは一度引き下げた第7条問題も再度協議しようと言われます。日本側の「それは既に決着したではないか、議論にはおよばない」に対し、大坂問題によっては再協議となると返されました。
続く