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8-7.下田での交渉

ペリー箱館へ

ペリーは、下田での検分を済ませたのちに箱館へ向かいました。箱館にはいったのは5月17日です。当時の箱館は、幕府の直轄領ではなく松前藩領です。幕府は、松前藩の江戸詰留守居役にアメリカ船がそちらへ向かうことを条約調印の前日(3月30日)に告げ、あわせて現地へも早飛脚を飛ばして「アメリカ船への薪水食料の補給地として、箱館港を開く」、「アメリカ船が来ても、穏便に取り計らい、無礼をしてはならない」と伝えています。現地は驚き、かつ大慌てだったと思います。

ペリーと交渉に当たったのは、松前藩家老松前勘解由かげゆでした。箱館で問題になったのは、遊歩地の問題でした。どこまで自由に歩き回らせるかということです。箱館市中を検分したペリーは10里四方を主張しますが、それでは対岸の津軽領まで含まれてしまうと反論され、下田同様に七里を提案します。しかし、松前藩では「権限外である」とその同意をしぶり、結論はその後の下田に持ちこされることとなります。

ペリーは、予想していた以上の箱館港、並びに市中の様子に満足し、6月3日に箱館を出航しました。

※ペリーは、箱館を「地中海入り口のジブラルタルに酷似しており、広い道路が整然と延び、排水への配備がなされ、敷石が敷かれ日本の他の町と同様に極めて清潔である」という印象を残している(出所:「幕末外交と開国/加藤祐三」P234)。

下田での交渉

ペリーが横浜を出航してから、来るべき下田での応接に向けて幕府も準備を進めます。基本的にはそれまでの応接掛がそのまま下田へ向かうことになりますが、江戸在勤の浦賀奉行だった伊澤政義が下田奉行へ転任、同じく浦賀奉行所組頭だった黒川嘉兵衛が、同じく下田奉行所組頭となりました。6月6日には彼ら全員が下田に到着しました。ペリーが下田へ戻ってきたのはその翌日7日でした。

会談は了仙寺で8日からおこわれます。3回目の会談(10日)時に、林はこれまでの漢文とオランダ語での文章のやり取りから漢文を外して、オランダ語と日本語で進めたいと提案し、ペリーは承諾しました。17日には早くも条約の取り交わしがなされます。

「日米和親条約付録協定」、「下田条約」ともよばれるこの追加条約は13条からなります。箱館の遊歩地の問題は第11条で5里四方と決定した他、石炭の補給は箱館ではおこなわない(第6条)とされています。他には、アメリカ人の埋葬場所を玉泉寺(今も、同寺にはアメリカ人水兵が眠っている)としたこと(第5条)、鳥獣遊猟の禁止(第10条)など、言語の問題は、第7条でオランダ語通訳がいない場合を除き、漢文を使わないことが明記されました。また、条約の末尾にも、「英語ならびに日本語にてやり取りをし、オランダ語の訳文を双方で取りかわす」ことが記載されました。下田追加条約とよばれるこれは、6月17日付けで双方が署名、調印しました。「ここにおいて、東アジアのラテン語とも言うべき漢文が外交の舞台から姿を消した(幕末外交と開国/加藤祐三」P二四七)」のです。日本の歴史始まって以来のことでした。

日米通貨交換比率

また、この追加条約では日米通貨の交換比率が決められました。欠乏品取引の対価は金銀銭、または同等品と和親条約7条にあるため、通貨交換の比率を決める必要があったのです。ここではアメリカ銀貨1ドルを、日本の天保一分銀を同等扱いと決定しました。アメリカ側は、銀ドル一枚がその量目外見が3分の1にしか当たらない一分銀と等価とされることに疑問と不満を持ちましたが、条約締結を急ぐペリーの思惑もあり、とりえあず目をつぶりました。これは、幕府がアメリカを騙そうと意図していたわけではなく、ある種の「金本位制」を採用していた当時の日本での一分銀の価値からは正当なものでした。

続く

タイトル画像出所:Wikipedia「了仙寺」https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ryosenji_temple_shimoda_2007-02-24.jpg


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