11-2.二人の交渉担当者
水野忠徳と岩瀬忠震の長崎派遣
一八五七年五月に長崎出張を命じられた水野・岩瀬の両名の目的は、「外国人の待遇問題」並びに「貿易問題の調査」の二つでした。長崎への途中、下田に立ち寄り、至急新たな方針を定めなければならない外国人の待遇(取締儀)について、下田奉行と協議をした上、長崎へ向かいました。この時期、下田奉行はハリスと下田協約の交渉中です。おそらく、下田奉行から「ハリスの要求を抑えるのは至難の技だ」と聞かされたことと思います。
さてこの両名、実は貿易に関して対照的な意見を持っていました。勘定奉行(この日、長崎奉行兼任と発令)水野は消極派、目付岩瀬は急進的ともいえる積極派です。バランスを重視した人選なのかも知れません。しかしながら、石井孝氏によれば、この両名は出張に先立ち、意見を統一させていたとあります。(「日本開国史/石井孝」P190)。
同氏によれば、長崎での取締については、「オランダ人の待遇を緩優にし、密貿易・キリスト教の伝播防止などの取締をたて、出島水陸の出入りや、市内遊歩の境界などは、現地にて長崎奉行らと協議の上決定」。貿易開始については、「西洋各国の事例をもとに、従来のやり方をあらため、損失の出ないための商品、並びに徴収する税について、オランダの意見を聞き、その協力を得た上で、当面は長崎のみにてそれを認め、下田・箱館については一旦は拒絶するが、止むを得ない場合は時期を延ばした上で許可する」としていたとあります(出所:「日本開国史/石井孝」P191)。
交渉の開始
あらかじめこのように方針を決めた2人が長崎に着いたのは、水野が7月18日、岩瀬が20日のことでした。クルチウスからの助言も得ながら、当面はオランダとの追加条約交渉が前面に出されます。クルチウスは自身の提示した「脇荷商法の拡大」を元にした貿易の大綱を文書にして提出、8月9日になってクルチウスと水野らと会談がおこなわれました。
クルチウスは、この時「貿易に関係ない部分だけを先に決めたい」と言ったらしいですが、水野らはそれをさえぎり、「貿易問題を検討したのちに取り決める」と回答、クルチウスもそれを承諾しました。詳細についてのやりとりは、勘定組頭高橋平作、徒士目付平山謙二郎、長崎奉行支配吟味役永持亨次郎(三名とも今で言えば課長クラスか)を通しておこなわれることになり、クルチウスは明日から毎日寄越してもらっても問題はないと言ったようです(出所:「日本開国史/石井孝」P193)。
水野の真意
クルチウスとのやりとりは順調に進められましたが、一方の日本側では水野と岩瀬の間には激論がありました。そもそも、水野は貿易に関する交渉には乗り気ではなかったのです。「徳川の幕末/松浦玲」によれば、水野は自身の長崎奉行時代、3年前のプチャーチンとの約束(通商を結ぶ際はロシアを優先させる)が気になっていたからだといいます(出所:「徳川の幕末/松浦玲」P51)。
また、水野からみれば貿易に「前のめり」となっている岩瀬の姿勢が面白くなく、江戸の同僚(勘定奉行松平近直)宛に、8月4日の日付で手紙を送っています。その末尾には、「他言無用の秘密ではあるが、伊勢守(阿部のこと)には詳しく説明しておいてほしい」と書きました(出所:「徳川の幕末/松浦玲」P51)。自らを長崎へ派遣した堀田ではなく、相手は阿部なのです。
このことから、微妙な人間関係、力関係が伺えます。阿部は堀田ほど貿易に関して積極的ではありません。したがって、水野は「阿部ならばわかってくれるだろう」とブレーキ役を期待したのかも知れません。
岩瀬の真意
一方の岩瀬も、ここでの交渉の様子を同僚に書き送っています。その手紙の末尾には、「せめて香港くらいまでは出かけて実地研究をしたい。このまま江戸へ戻るのは残念。今後不朽に残る貿易の基本を定めるのに国際貿易の実際も見ぬまま着手すれば、軽忽の謗りは免れまい。香港へ行けるのなら身分がさがってもいい(出所:「岩瀬忠震/小野寺龍太」P91)」とありました。
当時は、実地研究は下級役職者の仕事でしたが、岩瀬はそうなってもいいから、実地研究をしたいと強く思っていたのです。この岩瀬の香港派遣については、江戸でも評議がされましたが、岩瀬の願いが入れられることはありませんでした。
この両名、貿易に関わることだけでなく、いわゆる「取締儀」(キリスト教禁止問題など)についても、激論が交わされたと思います。長崎の現場は岩瀬よりでした。なんとかブレーキを踏みたい水野は、孤軍奮闘だったかもしれません。だから「こっそり阿部にだけに伝えてくれ」という手紙となったと考えられます。
続く
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