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12-13.諸大名への諮問

堀田の立場

さて、首相兼外相であった堀田自身はどう考えていたのでしょうか。これまで述べてきたとおり、彼は貿易(=開国)には積極的で、目付系の海防掛と同様でした。この年(1857年)9月に、ハリスの出府を認める際に出した、広く世界の情勢から説き起こした「鎖国制度撤廃宣言」(「10-14.ハリスの出府を認める」)とも言える達しからも明らかです。

したがって、ハリスのおこなった演説内容は、新たに聞くことよりも、むしろわかりきったことを聞かされたのかも知れません。ブレーンと頼む海防掛の官僚たちの結論は、その温度差はありますがハリスの要求をいれることを是とするものでした。事は非常に重大です。勘定系の海防掛からは、御三家をはじめ諸大名へ諮問すべきだと意見されています。これは4年前に阿部正弘が遺した前例があったからだと思います。

当時、阿部がそれをおこなった真意は、彼と意見を同じくする者をブレーンとして広く探し出し、さらには、有力な外様大名であった薩摩藩などをも自らをバックアップする存在として際立たせることでした。また、最も「うるさ型」の徳川斉昭でさえ、阿部は政権内においており良好な関係を築いていました。阿部の政治家としての力量といっていいでしょう。しかし、堀田は信頼できる同格(即ち大名)の士を政権内外に持たなかったのです。これが当時の阿部との大きな差でした。したがって、同じ事をおこなっても堀田は、阿部と違って得るものがなかったと思います。

堀田正睦という人物

徳富蘇峰は、堀田を「ともかくも当時の老中において、彼ほどの世界的見識を持った者は、一人もいなかった。また、溜間詰たまりのまづめの諸大名を数えきたるも、海外的知識においては、とても彼の上にずべきものは一人もなかった」(「近世日本国民史/堀田正睦(三)/徳富蘇峰」Kindle版P399)としながら、続けて「むしろ彼に同情しなければならぬ。彼は正直なところ、全くの孤立であった。彼は阿部正弘と違い、大奥に有力なる味方を欠いた。彼は阿部正弘と違い、一方には水戸、他方には薩摩というがごとき、当時の大有力者と、特別の干繋かんけいがなかった」(同書P399)と書いています。

堀田は朴訥ぼくとつな人で、あまり弁は立たなかったといいます(出所:「幕末政治家/福智桜痴」P75)。今の会社組織で想像すれば、いわゆる「仕事もでき」「部下からの信頼も厚い」が、社内の政治的な動きには一切関わろうとはしない、そんな人間でしょうか。わたしはそんなイメージを持っています。

諸大名への諮問

堀田は、12月26日(旧暦11月11日)に御三家及び溜間詰・大廊下諸侯へ、30日(同11月15日)にはその他の諸大名に対して、ハリスとの対話書を示して、意見を諮問しました。諮問とはいえ、そこに添えられた文章には、
 
「近来世界の形勢一変致し、唐土とうどの昔、戦国の世、七雄四方しちゆうしほうに立分れり候姿にて、御当国においても、すでに外国と条約御取結び、御交通在らせられ候上は、古来の御制度にのみなづませられ候ては、御国勢御挽回ごばんかいの期これ無く、(中略)人心不折合ひの節は、内外何様の禍端かたんを引出し申す可くも計り難く候間、先づ使節申し立ての趣、成るくだけ取縮とりちぢめ候つもり、精々応接に及ぼす可く候へども、今般御処置の当否は、国家治乱の境に候間、右再申し立て候趣につき、なお心付きの儀もこれ有り候はば、早々申し上ぐ可き旨、仰せ出され候」(出所:「近世日本国民史/堀田正睦(四)/徳富蘇峰」Kindle版P65)
 
とあり、要するにこれは、世界の形勢から開国の止むなきを示し、「使節の要求をできるだけ抑えるよう対応する」と、幕府の方針を既に消極的ながらも示しています。しかしながら、「国家にとって重大なこと」でもあるので、これについて何か意見があれば提出するようにということであって、その是非を尋ねているようなものではありません。

徳川斉昭からのとんでもない意見書

「日本開国史/石井孝」によれば、「大日本古文書幕末外国関係文書之一八」に収められている提出された意見書総数は23、承認12、拒否6、不明5であったらしい(出所:「日本開国史/石井孝」P258の註)。出された意見のうち、約半数はハリスの要求を受け入れ、堀田の意見を是としたわけです。

(300諸侯のうち、答申提出はその1割にも満たなかったのは驚き。圧倒的多くは、いわゆる定見をもっていなかったのでしょうか。)

しかし、拒否回答の中で特筆すべきは、頑固な攘夷論者であった徳川斉昭からの意見で、まさに「とんでもない意見」でした。斉昭は、心の底からの攘夷主義者で、「夷人の言う事は、すべて国を乗っ取ろうとする奸計」であると信じ込んでいたので、はなからまともな意見が出てくるわけもないのですが、斉昭は「自分に浪人はもちろん、百姓・町人等の二、三男、重追放者などの犯罪者を引き連れて、アメリカへ渡航させよ」というのです。続けて「そんなに日本と商売をしたいのなら、自らがアメリカへ乗り込んでやる」と。

「この申し出には、さすがの堀田正睦も、開いた口が塞がらなかったであろう」(出所:「徳富同書」P47)、と徳富蘇峰が書いています。

まさにその通りです。それだけではありません、斉昭は「百万両の拝領」を申し出、それを使って大鑑・大砲を製造するというのです。そして、それに乗って自らがアメリカへ渡るというのですから、正気の沙汰とは思えません。斉昭は本気でそう考えていたのだと思います。

水戸徳川家は、御三家として将軍家、つまりは幕府を支えなければならない家柄です。斉昭自身も、阿部の時代には海防掛の参与として幕政に関わっており、しかも世間からも声望をあった人間です。しかるに、この意見書はどう考えたらいいのでしょう。わたしは、堀田はもちろんのこと、当時の幕府の中枢官僚たちに同情を禁じ得ません。堀田自身もこれに対して、「真に好くないお人」と漏らしたらしい(出所:「徳富同書」P56)。当然の思いだと思います。

のちにこの意見書を知った斉昭の家臣たちは、その内容に驚愕しこの回収を図った(幕府からも撤回するようにと内々で指示があった)。回収されたことを知った斉昭は、それでも「我かねて工夫せる大鑑を製し置くは、必ず天下の御為ならんは、見るがごとくなれども、御役人に、我が志を知る人なきと見えたり。大息たいそくの事なり」と記し、理解してもらえかなった事を嘆くのみだった(出所:「徳富同書」P57)。

この章おわり。
次回からハリスとの交渉がはじまります。

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