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10-5.貿易に関するヒアリング

岩瀬忠震の下田派遣

9月22日、江戸は下田奉行の意見をいれて、ハリスの下田駐在を正式に許可する旨を同奉行に指示しました。この件に対して諮問された諸有司からは、強い反対の意見はありませんでした。

しかし、「邪教(キリスト教)伝染」がないよう留意することと、取り締まりを厳重にし、宿舎の規模などもなるべく縮小するようなどと、「やむを得ず」滞在させるという心境が透けて見えます(出所:「日本開国史/石井孝」P214)。そして、その指示を伝えるために、目付の岩瀬忠震が下田に派遣されるのです。岩瀬が下田に着いたのは9月27日でした。

ファビウスの下田来航

※9月28日、下田にファビウスの乗るメデューサがやってきました。ファビウスは長崎から箱館へ向かい、同地で4日間停泊した後、下田にやってきたのです。オランダにも開かれることとなったその2港の実地検分でした。

下田奉行所の役人による検分が済むと、さっそくハリスとヒュースケンがファビウスの元を訪れました。ファビウスの日記によれば、ハリスは満足からほど遠い気分でいたらしい。愚痴をこぼしたのです。こうあります。

「彼は、日本人はわれわれを裏切った。アメリカは『全然何も』得ていないと言い、次のように話し続けた。彼はここで秘書官と寺に住み、その屋根の上にはアメリカ国旗が翻っているのは事実である。しかし、その後は話し合う機会さえ与えられず、文通もできず、とにかくいささかの働きかけも得ないでいる。全世界から隔絶されている。情報や助言を求めて彼を訪れる日本人は一人もいない。彼は完全に見捨てられている、云々」(「開国日本の夜明け/フォス・美弥子編」P334〜335)

ハリスは、現地での孤独感と下田奉行らに対する愚痴を「ぶちまけた」のです。ひとり、ヒュースケンは、久しぶりに出会った同国人との会話に喜んでいました(ヒュースケンはオランダ人だった)。

ファビウスとの会談

※9月29日、奉行所において奉行井上、岡田、岩瀬とファビウスの会談がおこなわれました。この時の模様を、ファビウスはかなり詳細に日記に残しており、日本側もその「議事」を詳細に残しています(「幕末外国関係文書之一五/東京帝国大学」P五〜二六)。

それによると中心となった議題は、「通商・貿易」問題で、岩瀬らからファビウスに対して質問が投げかけられ、それに対してファビウスが答えていくといった形だったようです。

会談内容

やや長くなりますが、日本が「通商・貿易」に関して、いかなる問題を課題として認識していたのかがよくわかるので、ご紹介します(出所:「開国日本の夜明け/フォス・美弥子編」P336〜339)。

岩瀬らは「貨物税、出入関税の権利、中継貿易、保税倉庫」などの細かい点にわたって質問をしている他、「通商許可、あるいは日本との通商協定の締結は非常に難しい。それは日本にはヨーロッパとアメリカの市場に向いた商品が僅かしかないからだ」と現状の認識を述べ、「銅と貴金属を輸出すれば、鉱山はたちまち耗耗し、国はかつての南米のように貧しくなる」と述べました。続けて、「ヨーロッパ人やアメリカ人が日本の銅を求める理由は何か」と質問しています。

ファビウスはこれらに対し、「日本産の銅は、他地域と同程度の品質であるが、これまで日本には漆器と陶器以外には、輸出に向く産物がなかった。そのため、銅が最適な返り荷物になっていただけのことである。政府が日本国民にろうそく、樟脳、麻などのような他の輸出向け産物の栽培を奨励し、煙草を他の民族に適応するように仕上げさせれば、それらは確実に返り荷物になるであろう」と答えています。

さらに、「オランダ、イギリス、ロシア、アメリカ、そしてフランスをも含む諸外国以外にも、日本との通商を望む国はあるだろうか」との問いに対しては「通商は距離の問題ではなく、産業と企業精神は全世界共通のものであり、全人類を無限の高さに駆り立てている」と答え、さらに続けて「日本が自らその道をたどり、問題をその方向に向ければ、多大の犠牲を払わずにすむであろう。日本政府は旧制度に固執し続けてきた。現在すでに求められているように、日本がさらに譲歩を迫られる時がくるのも遠い日のことではない」と述べています。

また、「領事」というものの地位がいかなるものなのか、現状のハリスの扱いは不当なものだと教え、「他者の名誉を傷つける日本の慣習とはいかなるものか」という質問に対して、「踏み絵」や「信教の自由」にまで言い及んでいます。

岩瀬の決心

岩瀬は、ここにおいて明確に日本の進むべき道、即ち「交易互市之利益を以、富国強兵之基本」を日本の取るべきものとして確信したと思います。以降その方向で幕府の外交方針を引っ張っていくからです。岩瀬が10月13日に江戸へ戻ると、翌日ハリスとファビウスとの会談内容の報告会が開かれました。「日本の開国過程の再検討/清水憲朔(市立函館博物館研究紀要第24号/平成26年3月31日)」によれば、その時岩瀬は、ハリスは以下のように語ったとあります。
 
「日米銀貨の秤量比較から銀三分と一弗の交換と開港場の下田の変更と香港総督バウリングからの密事を幕閣に告げるために出府を要求。またハリスはバウリングが長崎で交渉が不調なら浦賀に廻るのでイギリスの行動に従う」(出所:「清水憲朔同論文」P4)

ハリスは、9月25日に下田奉行に対し、「日用品買入の自由並びに通貨効果比率」について長文の書簡を提出していた。この内容を岩瀬に語ったと考えられる。また、江戸への出府要求については、この時点では正式になされていない。バウリングからの密事とは、クルチウスがすでに伝えていた通商を求めに日本へ来航するという情報と考えられる。
ちなみに、岩瀬との会談はハリスの日記には出てこないが、岩瀬はハリスの印象を「口達者でああい言えばこう言う。いかにも親しげな振りをするのが憎い」と漢詩に詠んだ(出所:「岩瀬忠震/小野寺龍太」P64)。

※ファビウスの下田来航は、ハリスの日記では10月1日、ヒュースケンの日記では9月30日、ファビウスがクルチウスへ提出した報告書では9月29日となっている。本書では、以下の下田奉行らとの面談日が9月29日(安政3年9月2日)巳刻(午前10時から12時)となっていることから、その前日を来航日と推測した。

「通商」開始へ舵をきり始める

このような経緯で前述「10-3.堀田正睦と岩瀬忠震」の外国事務取締掛が設置、動き出すようになったと考えられます。幕府内は依然として多数派は通商拒否でしたが、少なくとも方向性として、通商へ向けて大きな舵をきり始めたといえます。それをリードしたのは岩瀬忠震、当時38歳でした。

続く


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