10-1.オランダの目論見
バウリング来航予告
昨年離日したあと、オランダ本国へ戻ったファビウスですが、3度目の日本派遣命令が出て、前年11月9日に締結した仮条約の※批准書を持って、1856年8月8日に長崎へ入港しました。今度は蒸気軍艦メデューサ艦長としてです。
彼は日本に来る途中に寄港した香港で、イギリス香港総督バウリング(「9-7.再びイギリス」)から、日本との通商を求めて、近く(2ヶ月後)長崎を訪問する予定であり、それを日本に伝えてほしいと依頼されました。
ファビウスは入港後に、クルチウスから自身が持参した批准書の無効を知らされます。既に「仮」が外された正式な「日蘭和親条約」が結ばれていたからです。
※この批准書について、ファビウスの日誌、並びに幕府の記録には管見の限りでてこない。しかし、松浦玲氏の「徳川の幕末」並びに「安政開港期のオランダ(桃山学院大学国際文化論集2/1990、8月30日)」、「ハリス日本滞在記(中)/坂田精一」により、その存在自体は明らかである。ハリスはこの写しファビウスから見せられて入手していた。これはのちに下田において日本側と一悶着を起こすことになるが、後述する。
クルチウスの目論見
クルチウスとファビウスは、イギリス来航の予告情報に便乗して、オランダ自身が本格的な通商条約を結ぶことを目論みました(出所:「徳川の幕末/松浦玲」P47)。早くも8月10日に、クルチウスはその情報を長崎奉行へ告げています。
8月20日には、会談が長崎奉行(川村修就)とおこなわれました。そして、奉行の求めに応じて、その会談での趣旨をまとめた書簡を提出します。
その内容は、クリミア戦争の終結と、もはや「鎖国」を堅持することは不可能な国際情勢を説き、他の国との自由貿易を許可すべきであること、もし日本がそれを拒むならば、必ずやすべての海運国と戦争する結果となろうということを前段におき、
「自由貿易、キリスト教の自由、踏み絵の廃止、長崎・下田・箱館に婦人子供を伴うことの許可、謁見、参府旅行に関する新規則の決定、法貨の設定、長崎における条約国人間の自由交渉」などなど、
これまで200年以上にわたり彼らの耐えてきた不自由を、一気に吐き出したような内容の追加条約の草案も併せて提出したのです(出所:「幕末日蘭外交史の一考察/庄司三男/国際政治ジャーナル1960年巻14号」P66)。
川村はそれを江戸へ送ること約束しました。と同時に、彼は江戸に対し、バウリング渡来に合わせて応接使節を派遣することを上申します。さらに、イギリスとの通商を許可すべきという意見を上申するのです。
通商を許可することこそが、イギリスをはじめとした列強との紛争を回避することになり、それが最善の方策であるとしたからです。中国のように、戦争に負けてから要求を受けいれるといった恥辱は避けたい、同じ轍を踏まぬためには通商を受け入れるしかないと認識したのです(出所:「幕末通商外交政策の転換/嶋村元宏/神奈川県立博物館研究報告―人文科学―第20号、1994年3月」P31)。
続く
タイトル画像:スターリング