11-5.岩瀬の自信
英将渡来無之者遺憾之極
さて、日蘭・日露との通商条約を締結した後、岩瀬は江戸の同役へ向けて長文の手紙(11月11日付)を送っています。その写しは「大日本古文書幕末外国関係文書之17/P707〜712」に収められていますが、その意訳を「岩瀬忠震/小野寺龍太」から一部紹介します。
「今回の条約は、今度の諸外国との通商条約の基本になると思うから、調印できて非常に嬉しい。実はこの調印決行に当たっては難しいこともあり衆議区々であった。だが自分としてはこの機会を失うことは国家の幸福を失うに等しいと思ってよほど激論を発して筑州(筆者注:水野忠徳)を説破し、蘭露とも滞りなく条約取替しを済ませた次第である。(中略)今回ロシアが済み、これでこちらからの都合も大方ついた。まことに欣喜雀躍の至りである。」(「岩瀬忠震/小野寺龍太」P101〜102)
岩瀬はこの後も「欣喜雀躍」という言葉使ってもいることから、今回の条約締結がとても嬉しかったのでしょう。そして、自らがまとめ上げた条約内容に相当の自信を持っていたと思います。この長い手紙の末尾は「只々英将渡来無之者遺憾之極に御座候」と書かれています。
「英将が来ないことが遺憾だ」とあるのは、バウリングとの交渉もこの線でまとめてみせると自信があったからです。
哀しき考え違い
岩瀬・水野だけでなく、江戸も従来の「脇荷貿易」の拡大により、貿易の制限をなくしたことを大英断として認識していたとはいえ、本来の自由貿易とはまったく異なるものです。クルチウスは、自身が目論んだ自由貿易の締結が難しいとわかると、即座にその線(脇荷の拡大)での交渉をまとめたのは、あくまで第三国(直近ではイギリス)との間にたって調停役をかってでようと思っていたからです。また、一方のロシアはそもそも市場の拡大に熱意を持っていなかったからという理由がありました(出所:「日本開国史/石井孝」P207)。
そもそもクルチウスは、これまでもずっと「幕府を刺激せず、受け入れらるように」という姿勢だったので、無理難題を幕府に申し出ることを自制していたと思います。この彼の穏健な姿勢が、岩瀬らをして「誤解」を生じせしめたと言えるかも知れません。今から振り返ればですが。
しかしながら、岩瀬のこの自信は、この数ヶ月後に始まることとなるハリスとの交渉で、無惨にも打ち砕かれることとなります。
この章おわり。
次回からは、いよいよ江戸においてのハリスとの交渉過程となります。ハリスと対決するのは岩瀬です。