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13-1.条約交渉開始まで

ハリスの焦燥

将軍拝謁から20日、堀田邸訪問から15日経った12月27日、ハリスは日記にこう記しました。
 
「雪、陰うつな日。私は成功の見込について、信濃守(筆者注:井上)の口から一言も引き出すことができない。又、障害の有無についても、その暗示すら得ることができない。この不安な状態は、不良な健康と相って、私の気持ちをはなはだ暗くする」(「ハリス日本滞在記(下)/坂田精一訳」P102)
 
31日はこうです。
 
「私は、この三日間というもの、信濃守(筆者注:井上清直)の訪問をうけていない。この事実は、私の交渉について懸念する不安な気持ちと相俟って、この年の瀬を憂うつな状態ですごすことを余儀なくせしめている」(ハリス同書P102)

ハリスは、下田の時と同様に江戸でも待たされており、不安な気持ちを日記に書いています。とはいえ、運動用に馬場の用意や、江戸の地図を依頼したりして、その度ごとに交渉はしていました。また、外国使節の居住地についての一般的な取り決め、いわゆる治外法権をめぐって、何かと宿舎に干渉してくる役人と対立するなどの事態を引き起こしていましたが、ハリスの要求に対しては全く反応がなかったのです。

恫喝

年明けの1月9日(1858年)、「私は、一つの危機を惹き起そうと決心した」(ハリス同書P104)と日記にありますが、ある作戦を打つのです。要するに恫喝でした。この日やってきた井上に対し、「自分が重大な演説をしてから、一ヶ月近くも経つのに、それについての公式な通知がなく、いつ回答がくるのかさえ示されない。このような私への取り扱いは甘受できるものではない」と詰問し、続けて

「私に対する日本人の態度は、全権委員が艦隊を背景とし、日本人に対して議論のかわりに砲弾をみまうことなしには、談判なるものが決して彼らとの間に行い得ないことを示すものだ」(ハリス同書P105)
 
と言い、そして最後の言葉として「もし何らかの手がうたれなければ、下田へ帰る」と言い放ったのです。「下田へ帰る」気持ちなど、ハリスには毛頭ありません。このように高圧的な態度をとれば、事態は動くはずだというハリスの下田時代に得た経験からの物言いでした。

「気の毒にも信濃守は、わなわなと身体をふるわせて、傾聴していたが、大統領を軽視したり、私を侮辱しようとするものではないと、一生懸命に私に誓った。そして、明日は日曜日でその日は私が用務を行わないから、その翌日までは返事をすることができないが、その日には私の満足するような返答を私にすると約束した」(ハリス同書P105)
 
ハリスの作戦が見事に成功したわけです。2日後の11日、井上はハリスに、現在の状況と多くの大名を納得させなければならない苦衷を述べながらも、15日には必ず回答の期日を知らせると告げました。

堀田の意思表明

このハリスの恫喝を受けた後かもしれません。ハリスの申し出に対する方針をこれまで明確に打ち出していなかった堀田が、「外国処置の件」とする意見書を、評定所一座(老中、三奉行、大目付、目付から構成される)へ提出しました。国内には拒否の意見も一定数あります。したがって、それを無視して交渉を開始するわけにはいかなかったわけですが、ここにおいて、ハリスの要求を受けての今後の方針を明確に表明せざるを得なかったのだと思います。

堀田は、まずこの重大局面につき、国内人心の一致がなければこの難局にあたるのは困難だとし、ハリスの要求について自分がどう考えているのかを説明する、質問があればいつでも回答に応じるとして意見書を始めます。

次に、対外策に見られる意見の一つ、「戦争となっても勝てないことは明白なので、やむを得ず、一時の方便として貿易をおこない、外国を追い払えるだけの軍備が整うのを待つ」という、いわば消極的開国論ともいうべき国内の大多数の意見を否定して次のように言います。

れ其の結局、ただ武備を練り、彼に軽侮けいぶせられざるだけにとどまり候までにつき、うち種々の変生じ、年々跡じさりに相成あいなり、つま如何いかが相成るきや、更に見据みすえこれ無き論にこれ有り」(「近世日本国民史/堀田正睦(四)/徳富蘇峰」Kindle版P111)。

そんな策は、ただ外国に侮られないようになるだけのことで、いずれ国勢を衰微させるもので、将来への大局をもたない弥繕びほう策であると批判します。さらに、もう一つの国内意見である拒絶論(戦争も辞さない)についても、そんなことをしたら「究年末世きゅうねんまっせ争戦絶ゆる間なく、国中の疲弊救ふき術なく、いづれの日に、万民業を安んずるに至る可きや」(徳富同書P112)。と非難します。続けて

「右はいづれも当今の時勢に達せず、到底結局の見据みすえ更にこれ無く、一は苟安こうあん(筆者注:一時の平和)に流れ、一は麁暴そぼうに陥り、共に国事を誤り候は同様にこれ有る可く」(徳富同書P113)
 
と、そのどちらも国を誤るものだと断じるのです。そうして世界の大勢を説きはじめます。

「一体近来世界の形勢一変いたし、各国互ひに同盟和親結び、貿易を開き、有無を通じ、患難かんなん相救ふの条約をなし、(中略)和親を結ばざれば戦争をなし、戦争を為さざれば必ず和親を結ぶの外、和親もなく、戦争もなく、外交を絶ちて独立いたし、昇平しょうへいを楽しみ候国は、一国もこれ無く、今いわれなく同盟和親を拒み、仇讐きゅうしゅうの所為のみ致しり候ては、眼前万国の妨害と相成り候事故ことゆえ、(中略)世界万邦を皆敵に引受け、いつまで東隅とうぐうの一孤島に特立して、持ちこらへらるるべき。ただ、手の縮み、志の屈するのみならず、国中無辜むこの生民を塗炭とたんに苦しましむるばかりにて、御国勢ごこくせい御挽回ごばんかいの期、一才これ有るまじく候」(徳富同書P113)。
 
もはや、旧来通り日本のみが孤立することは不可能なだけでなく、その不利益をも説いています。そうして、結論を述べるのです。
 
しかれば方今ほうこん第一の専務は、国力を養ひ、士気を振起しんきせしむるの二事に止まるべく候へども、そうじて強兵は富国より生じ、富国の術は、貿易互市を以て、第一となすゆえ即今そっこん乾坤一擲けんこんいってきの機会に乗じ、和親同盟を結び、広く万国に航し、貿易を通じ、彼が所長しょちょう(筆者注:長所)を採り、此の不足を補ひ、国力を養ひ、武備をさかんにし」(徳富同書P113)。

極めて、筋が通っています。「強兵は富国より生じ」「富国の術は貿易互市」。のちの明治政府の掲げた方針と同様です。そして、これらの事の利害を顧みず、ただ小事に拘泥し、外国を忌み嫌い、敵とみなすようでは、「天理人情においても相通あいつうぜず、時勢をわきまへず、いたずらに国事を誤り候次第に陥り申す可きか」(徳富同書P114)というのです。意見書の最後は、次のように締めくくられています。
 
「只今外国人御処置の次第は、即ち他日御国勢更張こうちょうの根本と相成り候間、少しも後来こうらい御都合宜しき様、肺肝はいかん(筆者注:心の奥)を砕き謀議を凝らし、精忠をぬきんでられ候様、いたし度しと存じられ候事」(同書P一一四)
 
今回の外国人処置は、将来の日本の国勢の根本であるから、そのつもりで忠義を尽くせといったことでしょう。堀田のこの決意表明の裏には、12月中には江戸へ戻っていた岩瀬の意見もあったに違いありません。実に見事な意見だったと言わざるを得ないとわたしは思っています。

注:日付は全て新暦(以降も同様)

続く
 


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