13-13.第6回目(2月2日)その2
国内旅行の自由問題その2
ハリスは、これに答えるのにやや大上段に構え、「大統領の好意は、備中守(堀田)に申し上げた通り、ただ貴国の幸福・発展を思ってのこと以外にはない。国の発展は、ただただ貿易の伸長にかかっている。イギリスはかつては、ヨーロッパの中で小国であったが、今や世界中でその国旗をみない場所はないほどの強国になっている。西洋各国の強盛は交易の利にかかっている。わたしがこれまで述べてきたことを採用すれば、日本は東方のイギリスにもなれる。私の申し出を拒めばそれだけ貿易の利が薄くなるだろう」と述べます。
そうして「ただ商売をおこなうための日数だけの自由があればよく、それ以外の意味はない。他の場所でその自由が与えられるのなら、京都はそこから除いてもいい」(以上出所:「近世日本国民史/堀田正睦(四)/徳富蘇峰」Kindle版P345〜346))と続けました。
しかし、日本側の返答は「其れに換えがたき難事これ有り、何分整ひ難く候」(徳富同書P346)というものでした。
ハリスは何とか譲歩を引き出そうと、具体の条件をつけます。
「アメリカ人が堺に住み、大阪へ日帰りの商売ができることを許可してくれるならば、京都を取り下げ、大坂居留もやめ、江戸においても言われたとおりを承諾する。とはいえ、アメリカ人商人らの旅行については、1861年7月4日(開港2年後)以降、許可すべしと取り決めたい」と述べました。
ところが、日本側の返答は「日本全体の政治に関わる問題であり、それはできない」とにべもない回答です。ハリスは、この問題が解決できなければ、とても十分な条約とはいえないからよく考えてもらいたいと述べますが、日本側もこちらの事情も考えて欲しいと返します。完全な平行線です。
「只今も申し談じ候通り、此方何分整ひ難き義につき、其方にて、今一応勘弁致さる可く候」(徳富同書P348)という、日本側の申し出で応酬が終わります。
双方何も得るものがなかった日でした。日本側はこの交渉の先行きに絶望に近いものを感じたかも知れません。それをハリスの日記でみてみます。
内乱より、異国と戦う方がまし
「日本委員は、第七条と京都を開く件は、二つとも不可能であること。それらを許容すれば、反乱が必ず起きること。条約の他の多くの提案は極めて困難であるが、必ずしも実行不可能なものではない。しかし、この二件は絶対に不可能であると、私に告げた。そして、ここで彼らは非常に感情的な言葉を吐いた。彼らは、もしも諸外国がこの二件を理由に日本人と戦端をひらくなら、我々日本人は災禍に対処して出来うる限り最善の努力をしなければならぬが、如何なる場合でも外国との戦争は、国内の争乱ほど恐るべきものではないと言ったのである」(「ハリス日本滞在記(下)/坂田精一訳」P148)
おそらくこう言ったのは岩瀬です。岩瀬は、この問題がこのように紛糾するとは、おそらく微塵も思っていなかったと思います。貿易により国を富ますことが彼の目指すものでした。しかし、それとは関係のないようにみえる旅行の自由の問題が、彼の目指す姿に暗雲を投げかけたわけです。
また、ヒュースケンもこの岩瀬の言ったことが非常に印象的だったのでしょう。日本側の発言を以下のように書いています。
「大統領は、日本が条約に明記されている事柄の実行を拒んだ場合、ヨーロッパの国々からもたらされるであろう危険について語っている。しかし、災厄は災厄であって、それが国外からこようと、国内からこようと厄災であることにかわりはない。商人が国内を旅行する権利は、単なる物質的利益のためである。さて、この金銭的な目的を、この国が混乱に陥ることと較べてみたらどうか(この演説は、この交渉の中でおこなわれた委員たちの発言のうちで、もっとも思慮にとんだものの一つであり、その言葉は正しかった。日本は危険な立場におかれている。何らかの利権を与えなければ、戦争と征服で脅迫されるし、権益を与えれば、国民が反乱を起こすだろう)」(「ヒュースケン日本日記/青木枝郎」P249)。
このくだり、日本側の対話書にはなぜか、記載がありません。記録させなかったのかも知れません。
最後は暗く沈んだようなこの日、ハリスは最後に、懸案の旅行問題は明日の議題としようと述べ、続けて「堺をアメリカ人の居留地として開放し、大坂に商館を設けて昼はそこへ通い、夜は家族のもとへ帰ることにしてはどうか」と尋ねました。
日本側は「堺・大坂の件は考慮するが、旅行の問題は考慮するには及ばない。なぜなら現在の情勢下では不可能だからで、不可能な事を考えるには及ばないからである」(ヒュースケン同書P251)と回答して散会となりました。
次の交渉は明日との申し出でしたが、祭日のため明後日となりました。
続く