13-3.第1回目(1月25日)
ハリスの日記によれば、条約の字句の修正などを含めた会談は全16回、1月25日から2月25日にかけておこなわれています(「幕末外国関係文書」に収められている幕府側の記録は12回)。ハリスの日記には公式なものだけではなく、内々の打合せも含まれているからです。場所はすべてハリスの宿舎です。
ハリスと日本側との応酬は、この初回から繰り広げられます。この日は、各論の詳細な議論ではなく、草案に対しての双方の主張が中心でした。冒頭、日本側から口火が切られました。日本側は井上が上席でしたが、岩瀬が中心となっていたと考えられます。初回から交渉の問題点となる事柄がすべてでてきます。
貿易問題
日本側はまず、堀田が伝えたとおり、貿易並びに下田に代えて新たな港を開くことには同意すると述べます。ただし貿易については、「当方の人民交易の義等曾て手馴れざる事にて、一時手広に取開き候ては、かへって混雑いたし候次第につき」(「近世日本国民史/堀田正睦(四)/徳富蘇峰」Kindle版P167)といい、既に提示してあるオランダ・ロシアとの条約に基づいておこないたいと述べました。そもそもの岩瀬の目論見です。
続けて「右場所・仕方等は、前二个国条約の趣にて、暫く相試み、利害特質を斟酌の上、国民手馴れ、便宜を覚え候に随ひ、追々改正の見込みにこれ有り」(徳富同書P168)として、要するにまずは試験運用から始め、それに慣れ、かつその利益を享受できるようになったら改正すると言うのです。
オランダ・ロシアとのそれを、おこなってもいない時から、さらにそれを上回る条件の貿易形態は、「国内とても折合ひ申さず、政府に於ても実に取扱ひ難く」(徳富同書P168)として、その上で、今回の申し立ては一才拒むわけではなく、「人情の向背は、事の成否の岐路につき、時勢人情を計り、当方の迷惑にも相成らざる様いたし度く候」(徳富同書P168)と言い、まずはオランダ・ロシアとの条約を標準として、それ以降漸進的に受け入れるようにしたいと述べました。
ここで、ハリスから意見が入ります。人心折り合わずというのは真実だとは思えないと言うのです。続けてハリスは「互ひに心の欲せざるものを、押して商売致す可しとは認め申さず、日本旧来の掟は、かへって人の欲し候儀を、御禁じなされ候につき、条約中右掟を除き候儀を、専一に認め置き候儀に御座候」(徳富同書P168)として、正当な商行為を禁じる日本の法を除こうとする自らの草案の意図を伝えました。
日本側は、「商売の仕方について、人民が不平を抱いているという意味ではない」と答え、ハリスから「それならば、別に難しいことはないではないか」と返されます。日本側はそこに重ねて言います。
「かねてご承知の通り、数百年来の鎖国、遽に大商売相開き候儀は、何分行届き難く、尤も貿易盛大ならざれば、国力強旺の期もこれ無き趣は、よく会得いたし居り候間、諸事漸を追って取行ひ候つもり、つきては魯・蘭条約には、長崎・箱館の二港に限り候旨、取極め置き候へども、追々申し立ての次第もこれ有り候間、下田を閉ざし、右代わりに江戸近海において、都合宜しき場所相開き候様致す可く候」(徳富同書P170)
これは、日本側の本音でしょう。「貿易が盛んにならなければ国力の増強ができないことは、わかっているが、そうなるまではゆっくりと事を進めたいのだ」、としてハリスの申し出をやんわりと拒絶しつつ、「江戸近海に新たな港を開く」と、いわば相手が飛びつくような「餌」を見せました。
ハリスは「それはどこか」と、即座に餌に飛びつきました。日本側は「神奈川港」と答えます。そして貿易の仕方も、開く港も「いづれも漸を追ひ、人心居合ひ候上、それぞれ取計らひ申す可く、先ず当今の処は、長崎・箱館及び神奈川の三港と取極め申す可く候」(徳富同書P171)と続けました。
ここまで、すべて岩瀬の論のとおりに日本側の意見が述べられています。次いで、「貿易の儀は、先づ年限を定め、魯・蘭え、相許し候振合ひを以て、すべて取計らひ候つもりにこれ有り候」(徳富同書P171)と貿易についてを締めくくっています。
公使駐箚と外国人に与えられる自由について
次は、公使駐箚問題についてです。ハリスは、これについて「右は此の程私より申し立て候个条中、第一の儀に御座候」(徳富同書P172)と述べ、「場所はどこになるのか」と尋ねました。これに対し、日本側は、六郷川から多摩川までの間(今でいう川崎あたり)をその候補地としている回答しました。江戸に駐箚など、この時点では考えられもしなかったと思います。
続けて、公使は公務において江戸へ行くことができるが、商人には遊歩の範囲を制限することを考えている。この処置について外国人を忌み嫌っているのかと思うかもしれないが、そうではない。人心が折り合わないからで、万が一両国の親善を害するような者が出てくることを心配しているからだと、その理由を説明しました。
ハリスは、この内容に内心怒り心頭だったでしょうが、ここでは反論を抑えて「他に説明すべきことはあるか」と尋ねます。そこで、日本側はハリスの襲撃を企んでいた人間を捕縛した事を伝えたのです。ハリスは、この回答を虚偽だと思ったのでしょう。捕縛した人間の名前を尋ねて、「これまでそんな恐れを抱いたことはなく、見たこともない。仮にそんな人間がいたとしたら、私が説得してみせる」と言いました。
これに答えて、「右は其許に意趣・遺恨等これ有りての所為には毛頭これ無く、理非・善悪の差別もこれ無く、外国人を忌嫌ひ候心情より、右様の企ていたし候儀故」(徳富同書P176)と言い、そのためハリスの宿舎周辺の警備を厳重にしているとも述べました。
ハリスは、まだ信じられなかったのか「私のみるところ、日本人はそんな風にはみえないが」と続けます。それに対して、「数百年来の鎖国、人心固着いたし候処より相起り候儀にて」(徳富同書P176)と国内の風潮を説明し、だから神奈川開港の上でも官吏や商人の居留地、遊歩範囲の制限は必要なのだと説明しました。
ハリスは、ここでこの問題を今後相談しようと打ち切りました。
※ハリスは、おそらくこれを信じていなかったか、もしくは外国人の自由を制限するために大袈裟に言っていると考えていた。この日本側からの懸念が、実際のことであったと彼が知るのはその翌年以降である。日本側は「浪人」と呼ばれる者が存在し、武家の次男・三男で、「武辺を好み、其の生遊懦にて、親にも見放され随従の主人なきものに候処」(徳富同書P174)と説明している。また、この3名は水戸領内に住む浪人、百姓であり、江戸でのハリス襲撃の情報を掴んだ水戸藩が捕縛して幕府へ引渡した。
「公使駐箚」問題は岩瀬の想定外でした。自身が最も懸念していた貿易問題ではなく、この公使駐箚がハリスにとって最も重大な問題というのです。これは、今までクルチウスからもプチャーチンからも出てこなかった問題でもあり、おそらく岩瀬は面食らったのではないでしょうか。国際法、外交儀礼というものの理解不足であったことは否めませんが、仕方のないことであったとも思います。
クルチウスは、日本との交渉の際に「日本があまり抵抗なく受け入れられるように」という配慮から、決して早急にことを進めようとはしなかったことは前述したが、直近の追加条約交渉時においても、彼が望んだのは貿易の拡大と、課せられていたオランダ人の制限緩和のみであった。したがって、正式な外交関係樹立は求めてはおらず、「公使の駐箚」は言い出さなかったわけである。
※引用元徳富蘇峰の同書は、その出典を「幕末外国関係文書」に依っている。したがって、ここで記す日米双方の「候文」はすべて当時、幕府が記録した議事録である。以降も同様。
続く