4-6.オランダの苦悩その2
支配した土地で栽培させた作物は、価格も数量も全て会社の方針にしたがって一方的に決められ、売買というよりは強制的な供出の性格を帯びていました。これはコーヒーに限ったことでなく、ジャワ産のすべての商品が対象となっていました(出所:「オランダ東インド会社/永積昭」P171)。東インド会社は、1777年にはほぼジャワ島(現インドネシア)の全域を支配するようになり、彼らの思うがままの土地利用と、そこからの収穫物を簒奪していくようになるのです。
東インド会社は不運だったかもしれません。日本との貿易をほぼ独占した直後には台湾を失い、その後貿易量も制限、ジャワの陸海の支配を確立したとはいえ、戦争の費用や領土拡大に伴う人員や施設の増加に、支出は増える一方だったからです。また、「安く買い、高く売る」という会社の方針に徹した結果、ジャワの原住民は貧困化し、インド産の綿織物さえ買う余裕を失ってしまいます。
「インドネシアは最後までオランダにとって原料買付けのための市場であって、本国で産出する商品の販売市場としての性格を遂に持たなかった。『ジャワで商品を売ろうとしても欠損にしかならぬ』と18世紀初頭の総督ファン=ホールンはしばしば本国へ書き送っている。イギリスなどと違って、オランダが近代化の波に乗り遅れたことは、こういう点にもよく現われている。」(「オランダ東インド会社/永積昭」P173)
岐路に立つオランダと東インド会社
オランダも、東インド会社も大きな岐路に立つようになっていました。かつてあれだけ利益を上げていた日本との貿易は、規模の縮小だけでなくその収支も危うい状態になっていきます。当然のことながら、日本からの撤退論もでてきました。利益が上がらないだけでなく、貿易を許可していることを恩恵と考えている幕府の尊大な態度を非難している報告もでています(出所:「オランダ東インド会社/永積昭」P243)。しかし、日本からの撤退はしませんでした。その理由の一つして、下記が挙げられます。
「オランダ人は日本市場の潜在的な可能性に期待しており、幕府の貿易統制さえなくなれば、利益があがるだろうと信じ続けていたことである。それゆえ、日本との独占的な関係を完全に断ちたくはなかったのである。オランダが絶ってしまえば、どこか他のヨーロッパの国がとって代わるだろうと推測された。なぜなら、日本人は情報を提供してくれるヨーロッパの国を少なくとも一つ必要としていると知っていたからである。」(「オランダ風説書/松方冬子」P125)
上記にあるように、「貿易制限」に関しては、さまざまな運動(おそらくは贈り物攻勢)の結果、1818年には幕府からの「銅」輸出量が年60万斤に加えて今後10年間、30万斤が増額されるなど、制限は緩やかになってもいます(出所:「江戸のオランダ人/片桐一男」P128)。こういったこともあって、なかなか決断ができなかったと考えられます。
※「斤=きん」は重さの単位。食パン一斤の「斤」である。一斤は340グラム。ここでは、棹銅の重さを指す。
オランダ東インド会社の解散
オランダ東インド会社は1799年に解散します。巨額の負債と、同社が獲得していた支配領域は本国政府に引き継がれることになります。しかし、長崎の日本商館だけは、唯一残されました。同社は約200年続いたことになります。
同社の記録は、その約200年分、全ての商館でほぼ毎日の膨大な記録が残されており、その量が多すぎて研究は未だ途上であるといいます。
続く(次回から、日本に戻ります)。