9-9.日蘭和親条約
海軍伝習所の始動
前述したように、クルチウスとともに日英約定の批准に関わる支援を行なったファビウスは、1855年7月21日に、スンビン、ヘデーの2隻の蒸気軍艦を従えて長崎へやってきていました。スンビンは、オランダ国王から将軍(13代)徳川家定へ献上されることになるものです。スンビンはのちに日本名「観光丸」と名付けられ、練習艦として使用されることになり、スンビン艦長ライケン大尉が教官団長、その乗組員22名が教官として、日本に残留することになります。これが、のちに「海軍伝習所」となる幕府海軍の教育機関となっていきます。
伝習生の選抜
スンビンの来航に伴い、幕府は長崎からの進言を受けて、前年のファビウスからの伝習をさらに拡大するため、8月21日に伝習生選抜の基準を出しています。人選は「できるだけ歳若く学力に優れた者、または砲術や蘭学の心得がある者」とされ、9月末には士官候補生37名が選ばれています(出所:「幕府海軍/金澤裕之」P43)。
江戸では、勝麟太郎が艦長候補として選ばれました。最初に学んだ生徒の中には、ペリーの最初の来航時に浦賀奉行所の与力であり、交渉にあたった中島三郎助も加えられています。また、伝習生は幕臣だけでなく、薩摩藩(川村純義、のちの海軍大将、昭和天皇の養育係)、佐賀藩(佐野常民、日本赤十字社の創始者)などからも受け入れられていました。
教育内容は、航海術、医学、造船学、機関学、算術と幅広いもので、教師の話すオランダ語をオランダ語のできる生徒が訳して説明する形式でした。教育は士官教育だけでなく、水夫や火夫(機関員)向けのものなど、蒸気船を日本人だけで操艦できるようにすることが、その第一目標でした。
クルチウスの提出した教官団滞在の条件
さて、クルチウスは正式な海軍伝習開始に先立ち、伝習に関わる教官団の滞在に関して、以下の問題点を6月に長崎奉行に伝えていました。具体的には、以下の4点です(出所:「ドンケル=クルチウス覚え書/フォス・美弥子編」P153)。
下田と箱館港湾で許可されるように、制限を受けずに長崎の町とその周辺を遊歩する自由を認める
長崎港湾に停泊するオランダ船と出島との間の行き来を完全に自由にする
全ての身体検閲の禁止
出島がオランダ商館に売却される場合も、同地は引き続き日本国土として存続する
クルチウスは、これらが解決できなければ、教官団の滞在はできないし、効果的な伝習はできないと口頭で伝えていたのです。
クルチウス支持を明確にした長崎奉行
7月初旬、奉行はそれらを公文書とすることを依頼しましたが、クルチウスはそれを江戸に提出すると確約してくれるのならば、それに応じると返答をしました。奉行はそれに応じます(出所:「覚え書」P154)。8月26日のファビウスの日誌には以下のような記述があります。
「今晩、大通詞龍太が訪れ、昨日のドンケル・クルチウス氏の条約に関する発言を奉行に伝えたと報告した。奉行はこの問題の要点をよく呑みこんでいて政府が日本のために多大の援助を惜しまないからには、日本もまたオランダ人に関して寛容であるべきだと考えている。当然『大いに、できる限り』それに報いたいと述べた。条約の内容を知ってから、事情が許す限り、できるだけ協力すると述べている。この問題は審議されるはずだ。」(「開国日本の夜明け/フォス・美弥子編」P154)
現場では明確にクルチウス支持となっていました。
条約草案の提出
9月5日、クルチウスは奉行所へ呼ばれ、江戸がスンビンの受納を正式に決定したことを伝えられ、そのための使者として、新任長崎奉行(川村対馬守修就が将軍の名代としてすでに江戸を出立したと告げられました。
さらに、条約文をはじめとして、質問事項を準備するよう依頼されました。「私たち二人はこの朗報に歓喜した」とファビウスは記しています(出所:「開国日本の夜明け」P169)。しかも、日本側からの要請です。クルチウスは、9月8日に条約草案、解説書、規定書、残留教官団に関する提言書など一式を、長崎奉行へ提出。それらはすぐに江戸へ送られました。
この時、クルチウスから提出された条約草案は全11条からなり、これまでの日蘭との取り決めをあらためて明文化したものに加えて、新たなものとしては第1条で「長崎におけるオランダ人の自由は、日米和親条約及びその付録に基づくこと、第2条で「出島及びそれに付属する住居等の所有は、オランダ商館へ売り渡されること」、第6条で「日本の他の港を他国に開港した場合は、オランダにも開港すること」、第7条では「日本に滞在中のオランダ人の信仰は、自由であること」などが盛り込まれていました。また、港湾規定は29か条からのものでした。
続く
タイトル画像:ヘルハルト・ペレス・ライケン
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