10-15.反対意見
御三家からの反対意見
堀田の決断、その告知は当然のことながら、多くの反対を引き起こします。水戸徳川家から第一声が、ついで尾張徳川家からも反対意見が出されます。幕府を支えるべき御三家のうち、二家から反対の意見が出されたわけです。これについて、徳富蘇峰は以下のように述べます。
「もし当時の将軍が、8代将軍吉宗ほどの気量ある者であったならば、親藩の異議などは、これを心服せしむるか、さなきまでも屈服せしむることは、必ずも至難の業ではなかったであろう。されどかかる場合に、むしろ水準以下と、一般に認められたる将軍家定たるにおいては、その面倒がさらに面倒を加え来るは、むしろ当然のことといわねばならぬ。されば、公武合体の破綻は江戸と京都との衝突といわんよりは、むしろ江戸と江戸との間の衝突から出で来った。」(「近世日本国民史/堀田正睦(三)/徳富蘇峰/Kindle版」P158)。
これは、後世の徳富蘇峰だからの意見ではなく、当時の政権内部、並びに雄藩からも「将軍の気量」は待望されており、だから将軍継嗣問題が起こったのです。
ここにあるように、「水準以下」とある当時の将軍家定は、幼少の頃から病弱で、人前に出ることを極端に嫌ったらしい(Wikipedia「徳川家定」によれば、脳性麻痺であった可能性が示唆されている)。29歳で将軍となり、この翌年(1858年)34歳で死去。将軍在位は5年だったが、将軍としての指導力は望むべきべくもなかった。かつてNHK大河ドラマの主人公ともなった「篤姫」は家定の正室であり、薩摩島津斉彬の養女。この婚姻を主導したのは阿部正弘であった。彼の頼りとする島津斉彬を、将軍家の婚戚として迎え入れたかったからである。しかし、篤姫と家定の婚姻生活はわずか2年。
反対意見の嵐
反対意見を出したのはこの両家にとどまらず、忍・桑名・姫路・高松の4藩は、藩主連名で反対意見書を提出しています。そのほか、溜間詰めの大名たちはほぼ全員が反対でした。
これについても、徳富蘇峰は「幕府の秘密政策の致すところ」として、非難しています。「おそらくはハリスとの談判の内情を詳らかにしなかった」ためだというのです(「近世日本国民史/堀田正睦(三)/徳富蘇峰/Kindle版」P161)。
反対意見表明者の中には、自らの定見をもたず、ただ単に不和雷同的にそれを表明した者もいたとは思いますが、このような状況下、堀田は反対意見には目もくれず、着々とハリス出府の準備を進めていくことになるのです。
10月4日、堀田は「条約取替せ相済み候国の使節は、都府へ罷り越し候儀、万国普通常例の趣につき、近々当地へ召寄せられ、登城・拝礼仰せ付けらる可しとの御沙汰に候」(「近世日本国民史/堀田正睦(三)/徳富蘇峰/Kindle版」P164)と、全国へ布告しました。石井孝氏は、「日本開国史」の中でこう述べています。
「ハリスの出府・謁見が認められたことは、岩瀬に主導される大小目付の意見の貫徹である。それは鎖国制度の廃止という意識をもって行なわれた。「首相兼外相」の堀田は、大小目付の意見を採用して、開国外交を大きく推進していった」(「日本開国史/石井孝」P238)
また、大小目付だけでなく、筒井、古賀といった「儒者」たちの意見も堀田を動かしたものの一つであったといえると思います。
続く