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10-10.下田協約の締結

ハリスのたび重なる催促

4月1日、ハリスは江戸の老中へ向けて3度目となる江戸への出府要求の書簡を提出しました。合衆国大統領から将軍へ宛てた書簡の持参者であることを報告してから5ヶ月以上経過しても、それが顧みられていないことを非難し、大統領から託されている重要な使命を、彼の権限と相応する権限を持たない人々に打ち明けることは、米国政府を軽蔑することになる、速やかにそれに対処するよう強く求めたものでした(出所:「日本開国史/石井孝」P221)。

日本人の「オランダ語」

4月21日、ハリスの要求した7つの項目に対して、すでに同意した点についての用語を定めるに至るまで交渉は進展しました。さきの2つの問題だけが残るだけです。

ハリスはこの日、日本側が使用するオランダ語に対して「彼らの知っているオランダ語は貿易業者や水夫の話すような言葉であり、そのオランダ語は250年も前のものであるばかりでなく、主題も上記の範囲に限られている。それであるから、抽象的な観念を彼らに理解させることは甚だ困難である。まして形容的に彼らにはなすことは、ほとんど不可能だ。」(「ハリス日本滞在記(中)/坂田精一訳」P236)と書いています。

また別の日には「条約や協約などに用いられるあらゆる言葉を全く知らない」ので、これが「彼らの過度の猜疑心や、欺かれはしまいかという懸念と結びついて、現に当面するような問題を処理することを極めて困難ならしめている」(出所:「「ハリス日本滞在記(中)/坂田精一訳」P267)と記しています。

日本側通訳担当である森山からすれば、誤訳すれば最悪「死」をも免れない命懸けの仕事であったわけで、その心労はどれほどのものだったのでしょうか。

協約の締結

6月17日。全9条からなる「下田協約(The Convention of Shimoda)」が調印されました。基本的に、ハリスが要求した項目がほぼ全て盛り込まれています。紛糾した2つの問題のひとつ、下田・箱館におけるアメリカ人の居住問題は、1年後の1858年7月4日より適用されることとなりました。

もうひとつ、領事に限っての全国の自由遊歩は、難船その他緊急の場合を除き、この権利の実施を延期することとして双方が合意しました。この2点とも双方の妥協が成立したことになります。

また、通貨交換における改鋳費は、日本の提示した6%で決定しました。改鋳費が5から6%に上がったことは、ハリスにとって些細なことだったと思います。

ハリスの皮算用

2ヶ月前の4月14日、それまでの7ヶ月間におよんだ彼の滞在費用の請求書には、合計で200万87百9文とありましたが、1ドル4,800文の換算で許されていたので、ほか、諸々を含めて約450ドルで精算しました(出所:「ハリス日本滞在記(中)/坂田精一訳」P223〜224)。

したがって、ハリスは、自らの1年間の生活を賄う費用を2千ドルと見積もることができました。彼の年棒は2千ドルです。もし、通貨交換で日本が折れなかったら、千ドルの赤字となるところでした。

ハリスの視線の先

調印を待つばかりの6月8日、ハリスは日記にこう記しました。
 
「私はこの成功に得々としているか。否、少しも。私は親愛なる同郷人をあまりによく知りすぎているので、私のなした事に対し何らの賞賛をも期待しえないのである。私がなした事のためでなく、イギリスが我々に対して開国していると同様に自由に日本を開く通商条約を私がまだ成し遂げていないからという理由で、辞任を命ぜられることがないならば、私は自らを幸福と考えよう。」(「ハリス日本滞在記(中)/坂田精一訳」P265)
 
ハリスの目は、次なる本格的な通商条約の締結へ向けられていたのです。しかしその前に、以前より要求していた自身の江戸出府を何としても果たさなくてはなりません。彼の出府要求は、一旦は拒絶の回答が出されています。そこをこじあける必要がハリスにはあったのです。

続く


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