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13-5.第2回目(1月26日)

公使の江戸駐箚

この日の会談から、中身は総論から各論にはいっていきます。

ハリスの日記によれば、この日は午後2時半から始まったとあります。冒頭、日本側は「昨日の議題について熟考してきたが、それについての結論を出すには双方の歩み寄りが必要である」と述べました。

ハリスは「成否は、まず公使の江戸駐箚を承認するか否かにかかっている」と返しました。続けて「神奈川を開くならば、そこにもアメリカ人が多数住むことになるだろうから、そこにも公使の居宅が必要となる」と2箇所を要求し、「昨日言われた、外国人に慣れていない日本人への実施教育の面からも、2箇所の外国人居留はよいと考えている。私が下田へ来た当初は、いつも見物人が多かったが、時を経るにしたがって誰も私に見向きもしなくなったことからもそれは明らかである」というのです。

また、「江戸に公使をおかないということは、大統領の信義、懇切を破ることだ」と、昨日の主張をより強く述べました。

日本側は、公使の江戸駐箚については割とあっさりと承諾します。ハリスの言う下田での例も、その通りだと言うのです。いささかも拒み候所存はこれ無く、只今申し聞けられ候下田の事、至極其のとおりにて漸々に薫陶くんとういたし候様仕向け度く」(「近世日本国民史/堀田正睦(四)/徳富蘇峰」Kindle版P206)

公使の江戸駐箚問題(草案第1条の前段)は、簡単に決着がついたように思えます。

条約発効日の延期要請

しかし、このあと日本側は「条約発効日時を延期したい」と、つまり公使の江戸駐箚を認めた裏には、この思惑があったのです。延期された期限内で国内の混乱を鎮めようという意図があったと思います。

ハリスは、これに対して当初戸惑ったらしく、「その趣旨を知りたい」と尋ねます。日本側は、「条約を取り交わすことはこのまま進めるが、いずれの内容の期日も草案記載の1859年7月より18ヶ月延期したい」と言うのです。つまり、発行日が1861年1月になるということです。この交渉時より3年後です。

ハリスは「言いたいことはわかったが、発効日については条約末尾のことなので、まずは条項ごとに検討しよう。条項によっては、5年待ってもよいものも、3年待ってもよいものもあるからだ」と返しました。

それに対し、日本側も「条項によって、様々あるのは承知しているが、まず公使駐箚の期日を決めてから先へ進みたい」と引き下がりません。この日の交渉は、実に多くの時間がこの「延期」問題に費やされています。

ハリスは、貿易を本格的に始めるには、起こりうる様々な問題に対処するために、公使あるいは領事の駐箚は不可欠なこと説明し、「ミニストル差置かれ候事につき、期限を定め候ては、外国え対し、体面を失ひ申し候。全体右様期限等立て候は、兎角とかく外国人を疎遠になされ候御扱ひと存じ候」(徳富同書P210)と、日本側の痛いところをついてきました。「幕府は外国人を疎遠に扱うように思われている」というのは、クルチウスからも「余計な摩擦を生む」と指摘されていたからです。

これに対し、「何もミニストルの事だけを延期したいというのではない。我々は、貿易を開くにあたり、すべて滞りなく準備を整えてから臨みたい考えている。その準備が整うまでは、全てのことを始めるのを延期したいと言っているのだ」と返しました。

激怒するハリス

さらに両者の応酬が続いたあと、ハリスは「左様に事を御延ばしに相成り候儀に候はば、差上げ候条約草稿を御火中なされ候方そうろうほうしかる可く存じ奉り候」(徳富同書P212)と、激怒します。「条約草案を燃やしてしまえ」と言うのですから、癇癪を起こしたような言い方です。

さらには、「交渉を打ち切り、帰国する」とまで言い放つのです。時に乱暴な言い方と、恫喝はハリスの常套手段でした。

「お互い誠実に談判をしようと言うのに、この延期について、そのように言うのには、何か誤解があるかも知れないが」と日本側は極めて冷静に返します。通訳上の問題を慮ったのかもれません。

ハリスは、「誤解などない。公使を置くのに3年も時間を要するというのは、不誠実そのものではないか。決して承諾できない」と重ねて言います。

「公使だけの問題ではない。他の問題も延期したいと言っている」と日本側は言い、そのあとその理由(浪人の存在)を前日に引き続き再度説明します。

しかし、ハリスは「下田ではそんな者はみなかったし、恐れもしない」と言います。「下田は辺鄙なところなので、浪人はいない。しかし、江戸は大都会なので、無頼の者も多く集まっているのだ」と返します。ハリスはここでは癇癪を起こすことなく、丁寧に反論します。

「無頼漢は世界中どこにもいるものだ。しかし、江戸の人々はロンドンやパリ等の人民より、はるかに気質が良いように見受けられるし、政治が行き届いているように感じられるから、私は心配していない。まずは自分の身は自分で守る。私に実害がでれば、その都度政府には報告する。その際は政府がそれを取り締まればよいだけのことだ」(出所:徳富同書P216)。

お分かりのように、日本側はハリスに「実害が及ぶ」事を心配しているから、それがなくなる時まで延期したいと言うのに対して、ハリスは実害が及んでも大した問題ではないと言うので、議論がかみあうはずもありません。

さてこの問題、どのように落とし所を見出したのでしょうか。条約書面に載せずとも、其許そこもと手心にて相延ばし候は相成り難く候や」(徳富同書P218)という、日本側からの申し出をハリスが承諾したことにより、一旦は決着したのです。

ハリスは1861年の正月より前には公使を送らないことをアメリカ政府に申し出ることを確約したのです。「私は彼らに、それでは国務長官に宛て手紙を書こう。国務長官は諸君らの希望を大統領に伝えるだろうと告げた。そして、これは彼らを満足させた」(「ハリス日本滞在記(下)/坂田精一訳」P129)と書いています。

しかし、ハリスはそれを本国政府が承認することを考えてはいなかったと思いますから、一時凌ぎであったとしか考えられません。ハリスは条約に「3年後」と明記することは、「恥辱」だと思っていました(出所:徳富同書P218)。

期限を設けて公使の江戸駐箚を延期したいという、この日本の希望は、他の条約締結国との交渉には出てこない。事実、この翌年の1859年7月の開港と同時に、イギリスからはオールコックが着任し、江戸に居を構えている。それに合わせてハリスも江戸に居を構えた。「私は本国政府に申し送ることは約束したが、延期する事を約束した覚えはない」とでも言い張るつもりであったのか。

続く


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