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12-3.堀田正睦とハリスの会見

接待委員との顔合わせ

江戸への到着翌日の12月1日、幕府の※接待委員たちが総計数百人もの供をつれてハリスの宿舎を訪れました。委員たちとの顔見せ、一通りの紹介といった儀礼的な挨拶が目的です。
 
「委員たちは、どちらかと云えば、いずれも知的な感じのする人たちで、彼らの中の若干の者は、たしかに皆の尊敬に値するような容貌をそなえていた」(「ハリス日本滞在記(下)/坂田精一訳」P47〜48)。

※幕府は「アメリカ使節接待委員」として、以下の8名を任命していた。土岐頼旨ときよりむね、林復斉ふくさい、筒井政憲まさのり、川路聖謨としあきら、井上清直、鵜殿長鋭うどのながとし、永井尚志なおむね、塚越藤助とうすけ。林、鵜殿の2名はペリー来航時の応接委員、筒井は「脅威の70歳」として既述、川路、永井の両名も既に述べた。井上がハリスとの連絡担当として、ほぼ毎日ハリスの元へ通っていた。通訳は森山栄之助である。

堀田邸へ

2日、ハリスは堀田からの返書を受け取り、将軍との謁見が7日に決まったことを知らされます。この日の日記で、ハリスは当時の日本の政治システムをかなり正確に記載していますが、唯一不正確だったのが、将軍と天皇の関係でした。ハリスだけではありません、当時の西洋人は「将軍を日本の政治上の最高主権者たるエンペラー(皇帝)と同一のものと考えていた。そして、京都におけるミカド(帝)は、単に宗教上の主権者、すなわち法王に過ぎないと信じていた」のです(出所:「「ハリス日本滞在記(下)/坂田精一訳」P56の訳注より)。

彼がその間違いに気づくのは、数ヶ月後のことです。

4日、ハリスは宿舎を出て、堀田の屋敷へ訪れました。堀田の屋敷は西の丸下(現東京都中央区銀座2丁目近辺)にありました。ハリスもヒュースケンも※駕籠での移動です。道中は、各藩の衛士たちも動員され、物々しく警備されていました。ハリスはこう書いています。

※ハリスは下田時代に、高貴な身分の人間の移動手段としての駕籠を知ったが、日本人サイズのそれを嫌がり、自分専用の大きな駕籠を作らせていた。

「この街路は舗装されていなかったが、注意深く清掃されていた。街路の警固に当った者は諸侯の家来で、いずれも主家の家紋のある衣服を着けていた。見物人の群れは、市中を通ったときほどではなかったが、―それでも、夥しく集まっていた」。(出所:「「ハリス日本滞在記(下)/坂田精一訳」P59)

この前日である12月3日、町奉行に対して以下の通達が出されていた。「一、万石以上以下、家来相応に差出し、右屋敷前、間数に応じ、五六間に一人ほどづつ、棒突ぼうつき(筆者注:六尺棒を持った番人)を差出し、往来見物の者を相払い、横小路これあるところは、屋敷角より三四十けん引下り、二カ所づつ見計い、人数差出し立切り、往来の者は勿論、右立切内外屋敷々々より罷出候まかりいでそうろうもの、用事これあり罷り通り候はば、先方承糺うけただしあい通し申すべし。町方の儀も右に準じ、横小路にこれ有るところは二ヶ所づつ立切り申すべきこと。一、道筋屋敷々々の内、人数差出しがたき小身の者は、最寄り大身の者より、足軽差出し申すべく候」(出所:「ハリス日本滞在記(下)/坂田精一訳」P65〜66の訳注より)。ハリスの江戸滞在中には、かなり神経を使った細かな指示が出されていたことがわかる。

堀田の印象

ハリスが到着すると、最初に彼を出迎えたのは接待委員の八名でした。そうして、ハリスは堀田との対面を果たします。ハリスは堀田の印象を書いていませんが、ヒュースケンはこう記しています。
 
「宰相堀田備中守びっちゅうのかみは、たいへん好もしい挙措きょその持ち主である。いたって温雅な容貌に、魅力的な微笑みをたたえている。齢45歳。物を言うのにすこしどもる」(「ヒュースケン日本日記/青木枝郎」P214)。

堀田は1810年生まれなので、正確にはこの時47歳である。
 
この日の堀田との会見においては、7日の将軍との謁見における細部の取り決めが行われ、ハリスが将軍を前に自らが述べることが説明され、堀田からは将軍の答辞の内容がハリスに告げられました。

続く


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