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13-25.第11回会談(2月17日)
旧暦1月4日(安政5年)。「日本委員は彼らの指定した正午には来ず、午後五時近くになって漸く到着した」(「ハリス日本滞在記(下)/坂田精一訳」P167)とハリスの日記にあります。
この日は、会談というよりも、現状に対する日本側の苦衷をハリスに訴えるようなものに終始しました。ヒュースケンは「委員たちの前口上はいつはてるとも知れないありさまだった」(ヒュースケン日本日記/青木枝朗」)P264)と書いています。やや長くなりますが、ハリスの日記をみてみましょう(この日の会談は幕府の記録にはない)。
日本の苦衷
「彼らは先ず、私の謁見の日から今月9日までの談判の経過をのべ、その多くの部分を三、四度繰返した。そして、絶えず大名と、日本に外国人の居住を許すことにより日本古古来の習慣を変改することに対する諸大名の反対などに言及した。これは1時間以上もつづいたが、彼らの望むところが何であるかについては、私に知らせるところがなかった。(中略)
彼らは更に話をすすめ、今月11日に条約を有りのまま諸大名に提示したところ、城中忽ち大騒ぎとなったと語った。若干の最も過激な分子は、かかる大きな変革の行なわれるのを許す前に、自分の生命を犠牲にするだろうと言明した。閣老会議は絶えずこれらの人々の啓蒙に努め、単なる政策に止まらず、王土の滅亡を避けんとすれば、この条約の締結は止むを得ないものであることなどを、彼らに指摘してきた。彼らは若干の人々を説得したが、自余の者は依然頑として応じない。幕府は流血の惨を見ることなしに、今直ちにこの条約に調印することができない状態にある。そして、大統領としても、日本にかかる災害をもたらすことを欲せぬものと確信するなどと言った」(「ハリス日本滞在記(下)/坂田精一訳」P167〜168)。
この日、ハリスに語ったこの内容は、まさに日本側の苦衷をそのまま表しています。
諸大名への条約締結の止むなきを説諭
幕府は、ハリスの日記には11日とありますが、「徳川の幕末/松浦玲」によれば、2月12日、13日の2回に分けて、在府の全大名を登城させて、これまでの条約交渉の経過報告をおこなったのです。
これは諮問ではなく、条約締結の止むを得ないことを諭示するためでした。そこでの模様をハリスに語ったのです。幕府を悩ませたのは、やはり徳川斉昭であったと思います。
御三家である水戸家は別格であり、登城には及ばず幕府から使者が訪れて説明がされました。使者は接待委員でもあった川路聖謨と永井尚志の2名です。嫌々ながらこの両名と面会した斉昭は、「元来備中守(筆者注:堀田)は不埒千万なり」「備中・伊賀(筆者注:老中松平忠固)は腹を切らせ、ハルリスは首を|刎《はねて然るべし。切ってしまえ」と、彼らの説明を聞こうともしませんでした(以上出所:「近世日本国民史/堀田正睦(5)/徳富蘇峰」kindle版P83)。
初めて斉昭と対面し、その剣幕に驚いた永井は「腹を切らねばならぬか」とまで思い詰めたといいます(出所:松浦同書P64)。斉昭は撤回させられた自らの意見書の件もあり、この時それまでの怒りを爆発させたのかも知れません。
岩瀬の熱弁
さて、城内では将軍も臨席する形まで整えられましたが、やはり具体の説明は岩瀬によるものでした。福地桜痴によれば、こうあります。
「岩瀬、原来弁才に達せるの人物なれば、縦横に論弁して、諸公もしこの意を解せざるか、もしくは異論あらば、憚りなく発儀あれよ、僕請うその答弁の任に当らん、徹宵議論して暁に徹するも、あえて辞せざる所なり、しかれども諸公今日に黙して論難を発することなく、かえって後日に及びて異論を唱えらるる事あらば、これ面従腹背の失節に陥るべしとまでに切言したれども、大名の身の悲しさには、過半は岩瀬が演説を会得せるものなく、唯々として柳営(筆者注:この場合は江戸城)を退きたるが、果せるかな帰邸の後、その藩士家来の説を聞て、反対の議をなすに至れり」(「幕末政治家/福地桜痴」P71〜72)
上記、太字部分「異論があれば、遠慮なく申し出よ。わたし自身がそれに答える。夜通しの議論も辞さない。しかし、今日なにも言わずに後日になって異論を言うのはやめてもらいたい。それは面従腹背の謗りを受けるのは免れ得ない」と、そこには岩瀬の強い決意が伺われますが、それが報われることがありませんでした。のみならず、大多数の大名がこの岩瀬の説明を記憶していなかったらしい(出所:「日本開国史/石井孝」P288)。大多数はいわゆるノンポリであり、賛成も反対ともに意見を述べること自体が少数だったのです。
条約調印の延期提案
この事態に及んで、日本側からハリスへ出された提案は、条約調印の延期でした。ハリスはこう書いています。
「私は最後に、閣老会議の一員が京都の『精神的皇帝への特使』として赴いて、皇帝の許可を得ることができるまで、彼らが条約の調印を延期しようと欲していること。その認可があり次第、大名たちはその反対を撤回するに相違ないこと。彼らは条約の内容をそのままに受けいれ、ただ若干の些細な辞句の変更を申し出るだけで満足し、特使が都から戻り次第、条約を実施するという彼らの約束を厳粛に誓うこと。それには約二ヶ月を要することを知った」(ハリス同書P168)
日本側は、大名の反対意見を抑えるために京都の威光を借りようと考えたのです。
ハリスは、初めてでてきたこの内容に対して、もし京都が反対したならどうするつもりかと尋ねました。すると日本側は、幕府は京都からの反対意見など受け付けないと、ハリスの言葉を借りれば「断固とした態度で」答えています。
ハリスは、そのような単なる儀式としか思えないことだけのために条約を延期する必要がどこにあるのか、と重ねて尋ねます。これに対して、儀式そのものに大きな価値があるのだとし、京都での決定が最後のものとなって、あらゆる物議が直ちに治まるであろうと日本側は答えました。この日本側の判断は完全に間違っていましたが、それは後述します。
ハリスは、この日本側からの申し出には内心は憤慨していたものと思います。「そんな些細な理由のために、ひじょうに大きな努力を費した条約に調印することを拒むよりは、私と全然談判しなかった方が遥かによかったであろう」(ハリス同書P169)とまで書いています。
ハリスだけではありません、日本側も、ここまでの事態は想定外だったのです。それでも「自分らは善意をもって行動しており、貴下は条約の実行されることを確信してよい」(ハリス同書P169)とハリスに告げています。
ハリスは、「当分その問題を保留して、条約の結了にむかって進むことを提言する。しかし、要求された延引を受け容れることを私が承知しないということを、諸君は明らかに了解しなければならない」(ハリス同書P170)と述べ、日本側もそれには同意しました。
条約内容についての若干の討議
この日の最後、日本側からは「相互の外交官派遣について、それができるのは日本が相手国へ外交官を送っている国だけに限ることを条文に載せたい」、「『外交官』という言葉そのものを『高級官吏』という言葉にかえられないものだろうか」といった、ヒュースケンの言葉を借りれば「あれこれと異議を唱えはじめたが、みなつまらぬことばかりだった」(「ヒュースケン日本日記/青木枝朗」P266)でした。
日本側からすれば、反対意見を抑えられるように、これまでの決定内容を少しでも「縮め」たかったのだと思います。しかしハリスは、交渉を長引かせてぎりぎり調印の間際まで事態の推移をみまもりたいという底意が日本側にあると見ていました(出所:ヒュースケン同書P267)。
時刻が午後8時をまわり、次回を2日後の19日として終了しました。
この日、ハリスは条約締結までは、通貨両替の際には6%の改鋳費をこれまで通り支払うことと日本側から要求された。やや憤りをもってこれを日記に書いている。
続く