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13-10.第5回目(2月1日)
この日、冒頭は前回の「問屋」が中心となる商売方法を日本側が説明し、それがわからなければ、今後の交渉にも不都合が生じるため、あらためて書面にて説明したいということから始まりました。
それに対し、ハリスはそれは理解したと述べ、書面での説明は不要であると返答します。そして、「貴国はこれまで外国人と交易してこなかったので、わからないのであろうが、私が述べたことは西洋諸州の一般的なやり方で、貴国の商法とは大いに異なっている」と述べ、長崎での条約改正(日蘭・日露の通商条約)は、私のいう自由貿易の中に一歩踏み込んだに過ぎないとし、大統領が望んでいるのは、完全な自由貿易なのであるというのです。
そして、神奈川の有望なことを認めつつ、江戸を完全に開くことを力説します。完全に開くこととは、江戸での幅広い商売とそこでの居留です。
江戸居留における応酬
前回の会談で、江戸を開くことは今より5年後の1863年1月とされています。
江戸における公使の駐箚も開港と同時にはすぐには実施しないと、ハリスは一旦は承諾しました。
ハリスは、それをもって「神奈川開港から3年半も経てば、外国人を見慣れるはずである。外国人商人が江戸に住み、商売をおこなうことは、私の強く求めることで、たとえ江戸に外国人商人が住んだとしても、僅か20人内外であり心配は不要」であると述べ、「江戸に住むことを拒否したままでは、商売の半分を断っていると同じことで、これでは十分な条約といえない」と続けました。
これを受けて、日本側は神奈川を居留地として、別に江戸に場所を定め、商売のために一時逗留することだけを許そうと述べ、ただし、妻子等の逗留は許可しないと、外国人商人の江戸逗留については、制限的にハリスの要求を認めたのです。
そして、「当今条約書えは、何年何月江戸を開く可しと認め置き、五个年を経て、右場所談判の上、差定め候様致す可く候」(「近世日本国民史/堀田正睦(四)/徳富蘇峰」Kindle版P319)と申し出ました。
続けて、5年後には江戸における商売も居留も認めるが、現時点ではその両方ともに実現には多くの困難があると述べました。原文では「衆庶の固着、何分氷解相成り難く」(徳富同書P319)と、やはり「人心折り合わず」がその原因です。
そして、「すでに交易も許し、ここまで談判してきたことは、決して一時を逃れようとしてのことではない」と述べました。
ハリスは、「私は決して、怖がらせて脅すことを目的に話しているのでなく、ただ条約の理念を申し上げているということを、勘案してほしい」と言い、続けて驚くべきことを言います。
「万一明日にでも意外の変事出来いたし候はば、御国のため、死を顧みず、剣を抜きて相禦ぎ候心得に御座候」(徳富同書P320)。
単なるでまかせであったとしたら、あまりにも大袈裟すぎます。ハリスは真意は何だったのでしょうか。
徳富蘇峰は、同書で「元来ハリスは感激性の男児であったらしいから、時としてはまじめにかく観念したかも知れない。ただ、全部その通りとは受け取るべきものではあるまい」(徳富同書P320)と記している。
この後、ハリスは清の事例を持ち出し、英仏等との条約締結後、新たに数港が開かれ、北京を含むどの都市でも自由に商売できるようなっていると説明します。そうして、江戸において居留場所が制限されることと、そこに一時的な居留を許すということを5年後に交渉するという内容を条約に載せることは不都合だと言います。
これに対し、日本側は条約には、5年後に江戸を開くことのみを載せ、その期日がきたら場所などのことを交渉するつもりであると述べます。ハリスからは「住居地は一町のみか」とその規模を聞かれ、「そう限ったことではない、その半分かもしれないし、必要ならば二町でもよい。交渉の際の状況によって定める。ただし、複数は許可しないつもりである」と回答しました。
外国人居留地
つまり、日本側が意図したのは外国人の「専用居留地」を1カ所設け、一般の日本人とは雑居させないというものでした。
ハリスは、条約に載せないのでは万が一私が死去し、その後に公使がきて交渉する際に、何の証拠もないので交渉がスムーズには進まないことの懸念を述べます。日本側も、生死の計り難いのはこちらも同じであるから、この交渉の件は別紙で記そうと申し入れました。
これはハリスに即座に拒否されます。「大統領が許さない」と。しかし、ハリスは日本側のいう「外国人居留地」を承諾、江戸だけでなく他の場所においても外国人専用の居留地を設けることについては承諾しました。ただし、「区別いたし候とて、出島の如き御扱ひは、御免くださる可く候」(徳富同書P323)と、出島のような扱いは拒否しました。
再び江戸居留における応酬
続けて、ハリスは江戸の居留問題に関して、正式に公使が派遣されてきてから改めて交渉をしようと提案し、現時点で、条約に「一時逗留」という文言を記すことには反対をします。
日本側は、商売のためであれば30日あるいは40日逗留しようと、問題はないことを述べます。
ハリスは納得しません。妻子を江戸へ伴うことできないことの不都合と、商人が江戸に来るといっても僅かの人数しか過ぎないのに、このような扱いは理解しかねると述べます。さらには、清の事例を持ち出して危機を煽ってきました。
日本側の返答は、清の例を逆手にとり「わが国の懸念も第一には同じだ。清のように混乱が起きてからその対処、取り扱いを変えるより、あらかじめそれを防ぐ手立てを打っておかねばならないのだ」と逆襲します。もっともな言い分です。
さらには「支那は商売相開き候より、既に千年にも及び候処、尚僅か一区を開くにつき、限りなく騒動出来のよし。我が国は数百年来外交を絶し、洋人の貌姿を見及び候ものは、僅かに長崎住居の者に限り候次第の処、俄かに貿易を開き、又国君の居所を開き候は、支那の一区を許せしと、其の難易もとより日を同じうして論ず可からざる儀と存じ候。篤と勘考これ有る可く候」(徳富同書P328)と、極めて真っ当な意見を述べました。
ハリスは、ここで話を転じて「江戸の件は妻子を伴えるか否かの違いだと思うが」と述べます。それに対し、日本側は「在住と逗留とでは、国内への印象が大きく異なる。妻子を嫌っているわけではないのだ」と返します。
ハリスは「それではまるで仇敵の如き扱いで、とても友好的とは思えない」と続けますが、「そんな風に思うのなら、何ごとも打ち解けて議論することができない」と日本側は突っぱねます。
続く