
13-12.第6回目(2月2日)
「ビジネス(用務)」か「トレード(貿易)」か
交渉も6回目となりました。ハリスの日記から見てみましょう。次のように書いています。
「例刻に会見する。日本委員は、「ビジネス」(用務)なる言葉に意義を唱え、その代りに「トレード」(貿易)という言葉を挿入したいと申し出る。そうなると、料理人、書記、医務者、その他事実上あらゆる補助的地位にあるアメリカ人はその辞義から除外されることになるので、私はそれに反対した。それと同時に私は、私の用語は直接貿易に従事しない者や、又そのような人々に使われている者の江戸居住を正当化するものではないと、彼らに告げた」(「ハリス日本滞在記(下)/坂田精一訳」P145)
こう始まった交渉ですが、一時的居留(逗留)はあくまでも商売のためと記したい日本側の主張に対し、それでは商売人以外(上記の料理人など)が逗留できないことになるから認められないとするハリスの主張がぶつかりました。
しかし、ハリスはこの問題は容易に結論が出ないと思ったのでしょう、今後話し合うこととして話題を転じました。彼から持ち出されたのは京都・大坂を開く点です。
京都・大阪問題
この問題は、第2回目(1月26日)と第3回目(1月28日)の会談でも議題となり、日本側に拒絶されています。ハリスは再度議題に上げたのです。日本側の「前回も述べたように、京都は決して開かれることはない。大坂も同様である」という主張です。ハリスの日記にはこうあります。
「日本委員は、こう言った。京都をアメリカ人に居住地として開くことは、何ともし難い反対がある。それは日本人の宗教と結びついている。それは至難であるだけなら兎に角、貴下の要求するところのものは、実際上不可能である。それは商用の場所ではない。そのことは、アメリカの公使がその市を訪問すれば、いつでも納得のできるものだ。その土地を外国人の常住地として開こうとすれば、謀反をひき起すことになるだろう。貴下がこの事を大統領に報告する場合、大統領は日本に対して極めて親切な友人であるから、実際上の価値がなくて、同時に日本に無秩序と流血とをもたらす事柄を主張するはずのないことを我々日本人は確信すると。彼らは、自分たちの言うことは真実であると、極めて厳粛に誓言した」(ハリス同書P146)。
ハリスは大坂も拒否されることを尋ねます。「京都に近いから」が日本側の回答です。続けて「尤も其の代り大坂近傍の地、古来外国通商これ有る地を開き候様にも致す可きかと存じ候」(「近世日本国民史/堀田正睦(四)/徳富蘇峰」Kindle版P338)と、大坂の代わりに近傍の地を新たに開いてもよいと提案しました。
ハリスは、日本側が提示した京都の地図(ハリスの日記によれば、ケンペルの本に載せられていた地図そのままだったというから、この時から200年以上前のもの)で説明をうけながら、京都を開く要求を取り下げました。日本人のいう「神聖な場所」だからという理由ではなく、商業上の重要地とはなり得ないと理解したからだと思います。
堺・兵庫
しかし、大坂を開くことは重ねて強く要求します。「大阪は江戸に次ぐ大都市であるから、この地を開かなければとても貿易は盛んにならない」と言うのです。そして大坂の代わりの地とはどこかと尋ねます。
日本側が目論んでいたのは堺でした。その地は、大坂同様京都に近いけれども、かつてはスペイン等に開いていた地であるから、国内を説得しやすいという理由です。ハリスは大坂には固執しました。外国人を納得させ、あれこれ口出しさせないような条約を結ぶことが日本の安全のためでもあるのに、大坂を開かなければその条件を満たす条約にはならないと言うのです。しかし、日本側は承諾しませんでした。
ハリスは重ねて「堺の他に候補地はあるか」と問います。それに対して日本側は、兵庫と回答し、地図上でその場所並びに人口などを説明しました。
ここで、ハリスから新たな問いかけがあります。それはアメリカ人商人が堺に住み、大阪へ出かけて行って商売をすることは可能か否かという事でした。これに対しても「我々政府はそれを理解し、許すべきとは思うが、何度も言うように、人心が折り合わないため困難である」と回答しました。この問題も合意を得る事なく、持ち越されます。
国内旅行の自由問題
これは、交渉でもっとも紛糾したものといえるでしょう。
ハリスは、「日本に1年以上居留しているアメリカ人のうち、アメリカ公使の許可を受けた者の日本国内旅行の自由」(草案第7条)についてを持ち出してきました。
日本側は、公使ならびに領事などのアメリカ政府の役人以外の者のそれは許可できない、それ以外の者は開港地ごとに決められる境界を出ることは許されない、それは居住が1年以上か否かに関係がなく、一般のアメリカ人のそれは認められないと述べます。
これに対して、ハリスは「アメリカ人が旅行をする目的は、日本全国の産業の様子を見たいという以外に他意はなく、それが難しいことは理解するが、その主意を勘案して欲しい。その視察の滞在期日を設けるつもりでもある。そのようにして、京都へも視察をおこない、商売の可能性を調べたい。また、本条約の有効期日1872年まではそのようにし、その間双方にとって利益がなければ、取りやめることとする」(出所:徳富同書P338)と述べました。
これに対し、日本側はいわば聞く耳を持たないと言った感じでしょう、「文段を改め候ても、つまり官吏の外、平人旅行の儀につき、一八七二年後にも相成り、国人慣熟もいたし候はば、其の節の模様により候事、即今全州を恣に旅行致し候儀は、思ひも寄らず、とても談判に及び難く候」(徳富同書P343)と返すのです。
「思いも寄らず」「談判に及び難く」が、日本側の強い拒否をよく表しています。
ハリスも負けていません。旅行できるアメリカ人は、性質、素行ともに問題なく、許可を与えられた人間のみであるから、全てのアメリカ人というわけではないこと、さらに僅か1、2の場所を開いただけでは、日本を開いたことにはならないと返しました。
日本側は、冷静にかつ理路整然と述べます。「大統領、ならびに貴下の親睦・懇切の意は、わが国政府もよく理解し、ここまで議論もしてきた」との前段のあと、「然るに遽然として外国人民全州を旅行するとの儀は、闔境筆者注:国全体)の人心に障り、これが為に、国内安全ならざるに至る」(徳富同書P345)と言い、「そんな国内の混乱を、親睦・懇切の貴国は望まないだろう」と述べます。
そうして「未来永劫認めないと言っているのではない。いずれ人心の折り合いがつけばそれも可能だろうが、今はとてもそんなことを許すわけにはいかないのだ」と続けました。
日本側の苦衷をよく表しています。
続く