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9-7.再びイギリス

「日英約定」の評判

スターリングが結んだ日英約定(1854年10月)を、当時清駐在のイギリス貿易監督官J・バウリングは激怒したらしい(出所:「明治維新史/石井寛治」P36)。「通商」に関する規定がなかったからです。

バウリングは、対日通商交渉の権限を本国から与えられており、日米間の条約締結を知ると、大艦隊を率いて日本へ向かい、一気に通商条約の締結を考えていたからです。これにはフランスの協力もとりつけてあったといいます。彼が清から離れられなかったのは、上海付近にまで近づいてきた太平天国軍から、イギリス人とその権益の保護が最優先となったからでした。彼が、イギリスの広東総領事H・S・パークスとともにシャム王国(現タイ王国)と結んだ(結ばせた)通商条約は、「内地通商の自由」「アヘンを含む輸入品の定関税率(3%)」という内容でした。

もし、彼が日本へ来ていたなら、どうなっていたのかを考えるのがおそろしい。なお、パークスはのちに日本の領事として来日することになります。

スターリングの目論見

イギリス本国においても、外務省と商務省の間で意見が対立していました。これは当事者スターリングへの強い風当たりとなります。そこで、彼は自分が署名した日英約定を、本国に広く受け入れてもらえるように、批准書交換の際に軌道修正を試みます。批准書そのものの修正はできませんが、「批准書の英文、和文を蘭訳に完全一致させる」、「港湾規定等の細則レベルにおいて調整を図る」、「約定の増補を付ける」この3つで変更を試みようとするのです。(出所:「和親条約と日蘭関係/西澤美穂子」P126)

スターリング2度目の来航

スターリングは1855年5月10日に長崎へ来航しました。そして、5月16日に批准書交換のための準備会談が行われることになりました。しかしその前日、スターリングから前年の日英約定と、その後に取り決められた港湾規定が一致していないため、同規定の修正を促す書面が長崎奉行(水野の後任、荒尾成允(しげまさ)に提出されました。

16日の会談当日、スターリングはあらためて、港湾規定箇条書と日英協定批准書の写しを奉行に提出しました。そして、19日には、批准書交換を10月1日と決定した後、長崎を離れました。

批准書交換をめぐる混乱

しかし、10月1日には批准書の交換はできませんでした。日本側作成の蘭文に対して粗雑、拙悪、不明瞭であると苦情があったからです。

長崎奉行は、再びクルチウス、ファビウスに対して援助を求めるしかありませんでした(ファビウスは、7月21日に蒸気軍艦へデーとスンビンを引き連れ、2度目の来日中、後述)。クルチウスらは、スターリングの苦情が正当であることを日本へ伝え、奉行らに英語の批准書とオランダ語のそれを、条項ごとに訳し直すことを申し出ます。

そうして、イギリス側も納得するものが完成し、9日になってようやく批准書の交換は行われました。この混乱は、前年の交渉において、日本語からオランダ語に翻訳する際に、クルチウスに協力を求めなかったためです。英文からオランダ語へだけの翻訳を頼み、日本語をオランダ語へ翻訳したのは、通詞たちだけで行なっていたために起きた問題でした。これに対し、前年に引き続き対英交渉の援助を行なったファビウスは、日記にこう記しています。
 
「これまでも頻繁に行われてきたように、日本はこの度もまたこのような状況のもとで、交渉した。つまり、自力で、第三者の援助を受けずに行なってきた。そして何度となくこのような難局に対応できなかった。この出来事によって、彼らが私たちに依存していることが判明した。われわれが日本の信頼できる友、常に頼れる友であることが明らかになった。」(「開国日本の夜明け/フォス美弥子編」P196)

続く

タイトル画像:J・バウリング



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