3-6.余話として(オランダから取り寄せたモノ)
一般的なイメージと相違する実態
民放テレビで「石見銀山」を扱った番組を見たことがあります。当時の石見銀山からの産出量が、世界の1/3を占めたことなど正しく紹介していましたが、イメージ映像では、「銀」の対価として日本に入ってきたモノを、「時計」やら「ガラス製品」やらとして映し出していました。ヨーロッパから買うのだから、「進んだ」モノに違いないという先入観からではいかと思います。
前述したように、その実態は大きく異なります。最初の相手であるポルトガルやスペインも、次のオランダも、日本に運んできたのモノは、圧倒的にアジア、特に中国からのモノです。もちろん、当時の日本になかった機械製品(時計など)を運んできたことは事実ですが、量的にはいうに及ばず、金額的にも微々たるものでしょう。
雪の殿様土井利位
余話になります。
大坂城代、京都所司代、老中を務めた土井利位(1789〜1848)という殿様がいました。彼は古河藩(現茨城県古河市)藩主でした。(彼が大坂城代の時に有名な大塩平八郎の乱(1837)起きた)
彼は、「雪の殿様」として江戸市中で知られていました。20年にわたり、同藩藩士であった鷹見泉石(蘭学者でもあった)の指導のもと、雪の結晶を観察し続け、それを「雪華図説」として著したからです(86種類の雪の結晶図が記されていた)。なんと典雅な趣味でしょう。
そこで描かれた結晶図は、着物の紋様として取り入れられて流行したといいます。彼の官名でもあった「大炊頭」から、「大炊紋」ともよばれたらしい。また、彼はその紋様を入れた和紙を作らせ、それで手紙を書いたことから、その和紙が非常に希少なものとして垂涎の的となったとも言います。
その観察に使ったのが、オランダ東インド会社から入手した顕微鏡でした。彼は、明日は雪が降りそうだと予測すると、顕微鏡との温度差によって雪が消えないよう、その前夜からそれを外に出すほどの念の入れようだったらしい。
Wikipedia「土井利位」によれば、彼が残した雪の結晶の紋様は、古河市内の小学校や歩道などに使われているらしい。
続く
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