7-14.ロシア艦隊長崎へ
再びクルチウス
さて長崎では、通詞たちの忌避により一旦は冷え込んだようなクルチウスとの関係ですが、ペリーの来航がそれを大きく変えました。
「7月7日。通詞の吉兵衛と栄之助が機密情報を持ってきた。アメリカの軍艦5隻が琉球列島の海域に投錨した通報があった。」
「7月22日。同じ顔ぶれの通詞たちがまた機密情報を持ってきた。去る7月8日に江戸湾の湾口沿岸に所在する浦賀に超大型蒸気船2隻を含む4隻で編成されたアメリカ艦隊が来航した。」
(「幕末出島未公開文書―ドンケル=クルチウス覚え書/フォス美弥子編訳」P39、以降「覚え書」)。
ペリーの来航を通詞たちが告げに来たのです。これ以降、通詞たちは頻繁にクルチウスの許へ訪れたことがクルチウスの覚え書に出てきます。8月1日には、この年のオランダの定期船が長崎へ入港、新たな「別段風説書」を運んできています。このオランダ船は、7月29日に長崎の遠見番所の視界に入っていたのですが、オランダ国旗と秘密信号旗が認知されず、入港許可がでなかったようで、それがオランダ船だとわかった時には長崎の町は歓喜に沸き立ったと覚え書にはあります(出所:「同書」P40)。未知の外国船を長崎の町全体が警戒していたことがわかります。オランダ船入港後、毎年の通例として「別段風説書」が提出されました。そこには、ロシア船の来航予告が書かれていました。
ロシア艦隊来航
8月21日に、「風説書」の予告通りに、エフィム・プチャーチン海軍中将が率いる4隻のロシア船が来航しました。日露の国境問題と通商関係の樹立を求めてやってきたのです。ロシアは、アメリカの日本遠征計画を知り、即座に日本への遠征を決めたのです。長崎へ向かったのは、シーボルトの助言があったからで、オランダの協力を得ながら慎重にかつ、平和的に交渉を進めようと考えたからでした。
ロシアは、アメリカがカリフォルニアを獲得した段階で、太平洋へ出て日本へ向かうことを予想しており、日本への遠征が大規模な艦隊でのものになることを知ると、「もはや日本は通商を開かざるを得ない」と予想し、アメリカが獲得する条件をロシアも獲得することを目論んだのです。また、クリル諸島、並びにサハリン島の帰属といった国境問題の交渉を始めることも目的としていました。最優先は、通商問題でした(出所:「日魯通好条約について/麓慎一」東京大学資料編集所)。
クルチウスの役割
8月23日、プチャーチンは2通の信書を提出しました。1つは長崎奉行宛て、もう1つは江戸の老中宛てです。長崎奉行(牧の後任大沢豊後守秉哲)は、通詞を通してこれをクルチウスに知らせ、文書翻訳の支援や今後起こりうる問題に対しての援助を要請しています。クルチウスはそれを承諾し、以降、外交儀礼のあり方や外交文書の書き方、応接に必要な家具・備品などの貸し出し、そして、今後のロシア艦隊の行動予想など、あらゆる面で奉行を援助しました。つまり、自ら望んでもいなかった役割を日本から与えられたわけです。これが、前述の頓挫したクルチウスの作戦を進めることになっていきます。
奉行は、その信書受け取りの是非を直ちに江戸へ急送、江戸からの受領許可の返書が届き、プチャーチン一行が長崎へ上陸します。信書の受け取りならびに会見が行なわれたのは9月19日のことです。この間、ほぼ毎日にわたり、クルチウスと情報交換をしています。プチャーチンは、江戸からの返書を長崎で待つと伝えました。
通詞森山栄之助
これまで、何度か名前を出している通詞の森山栄之助(「5-9.頻繁になるアメリカ船の来航」「5-11.アメリカ人青年の夢」。彼は8月初旬、江戸へ出張を命じられた際に、クルチウスへ英語辞書(英蘭辞書)の譲渡を願い、クルチウスはそれに応じています。森山は、8月下旬に江戸に到着、アメリカからの国書の翻訳作業の支援と、ペリー再来に向けた相談を老中阿部から直接受けたらしい(出所:「和親条約と日蘭関係/西澤美穂子」P32)。具体的には、ペリーから来春と告げられた再来の延期をさせたいということで、それをオランダ商館長を通してアメリカへ伝えることでした。当然、これ以外にも阿部は、現場の第一線にたつ森山からさまざまなことを聞き取ったと考えられます。江戸滞在中にロシア船長崎来航の情報が届き、森山は9月初旬に長崎へ向けて出発しました(「西澤同書」P32)。
続く