11-3.日蘭・露との追加条約
草案を作成したのは日本側
8月末か9九月初旬には追加条項が作成されています。この作成は日本側で進められました。水野、岩瀬、岩尾らは独自の条項案を作成したのです。
これは、幕末に締結された条約の中で唯一の事例です。
これまでは相手から草案が出され、それを急いで翻訳したため不都合が多々生じたことから、それを防ぐためです。水野は、のちの弊害を防ぐことを念頭に、一字半句もゆるがせにせず作成したと江戸へ報告しています。
ペリーの来航から4年経ち、貿易に関する条項を自ら作成できるまでになっていたわけです。この時までに幕府は、クルチウスやハリスから清やシャム等が欧米諸国と結んだ条約、または英米間の条約等の写しを入手しており、研究してきたからなし得たことだと思います。
交渉は順調
水野らは、自分たちの作成した条約案で、なんとかしてクルチウスを説き伏せようとしていました。そしてまた、この条約でもって来航が近いとされるイギリスだけでなく、アメリカとの条約の雛形にしようと目論んでいたのです。
この目論見はクルチウスへは成功します。そもそもクルチウスは、従来の脇荷貿易を拡大することを日本へ上申していたわけで、自由貿易を望んでいたわけではありませんので、大きな異議がでるわけもありません。概ね日本側が作成した条約案で交渉が続けられました。
突然ロシア船来航
クルチウスとの交渉中の9月21日、長崎にプチャーチンの乗る軍艦1隻がやってきました。クリミア戦争が終結し、ロシア政府は清国政府と国境問題を話し合うため、プチャーチンを正式な大使として派遣したのですが、清国政府との交渉はできなかったため、そのまま日本へやって来たのです。
目的は「通商」にかかわる条約の締結です。応対にあたった水野らは、かつてプチャーチンと交わした「通商にかかわる取り決めはロシアが最初」という約束を挙げ、オランダとの条約案を雛形として、ロシアとも交渉が進められることになるのです。水野は、ずっとひっかかっていたロシアとの約束を反故にすることがなくなったので、安心したと思います。
独断での条約締結
このプチャーチンとの交渉開始は、江戸からの承諾を得ないままオランダとの追加条約を締結するという、極めて異例な事態を引き起こしました。
正式名称は「日蘭和親条約追加条項」とよばれ、10月16日にクルチウスとの間で調印されるのです。これは、オランダとの条約を基本としてプチャーチンを抑えるための方策でした。
オランダとの追加条項には禁制品として、キリスト教関係の書籍・画像類を日本人に渡さないという条項が設けられていたのですが、プチャーチンはそれを頑なに拒み、日露との条項案からは削除され、それに伴いオランダとの条項案からも削除されるということがありました。
したがって、ほぼ決まりかけたオランダとの条約も、プチャーチンによって更なる譲歩を迫られることを恐れ、オランダとの正式条約を基本線としてロシアを抑えるため、オランダとの条約締結を江戸からの指示を待たずに独断で調印することになったのです。
ほぼ決まりかけていたオランダとの条約締結の流れに乗ることができたプチャーチンは、実に運が良かったと言わざるを得ません。
鎖国制度の完全な撤廃
オランダとは10月16日、ロシアとは10月24日に、それぞれ追加条約が締結されました。初めて「通商」に関わる条項が盛り込まれ、かつ日本側が草案を作成したという点で特筆すべきものです。
先に、ハリスの江戸出府を認め、ついで通商を伴う条約をオランダ・ロシアと締結し、これまでの「鎖国」制度は完全に撤廃されたといっていいでしょう。1857年10月のことでした。
続く
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