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13-22.第9回会談(2月8日)その4

批准書交換

次の議題は、批准書交換についてでした。

日本側は条約批准のために、当方からワシントンへ使節を送ることが正式に決定されたとハリスに伝え、ハリスから、条約文の書き換えが提示されて日本側が同意します。ヒュースケンはこう書いています。
 
「最初、私は、ほんの座興程度に聞いていたが、彼らがきわめて真剣なので、私もまじめに聞くことにした。今日、彼らはその話をくりかえして、政府は日本の蒸気船で使節を派遣することにきめたと言った。それはカリフォルニアのサンフランシスコに行き、そこでアメリカの郵便船に乗せてもらってニューヨークからワシントンに行くという考えである」(「ヒュースケン日本日記/青木枝朗」P257)

貿易章程について

貿易章程(規則)に移ります。冒頭、日本側からはいくつか質問が出されます。そうして、日本側は、自らの不明を正直にハリスに告白するのです。

「かねてわきまへ居られ候通り、当方に於ても、商売致し候は、今般始めての儀故、税法其の外瑣細ささいの事に至るまで、ことごとく承らず候ては相分りかね候間、諸事差出され候商法定則書に基づき取調べ候つもり」(「近世日本国民史/堀田正睦(四)/徳富蘇峰」Kindle版P444)と、日本側には商売・税法に関する基本的知識がない事を打ち明け、すべてハリス提出の草案をベースに考えると述べたのです。

続けて、「追って魯西亜ロシア人等渡来、右の定則よろしかざる趣を以て、海外諸州の法則を挙げ、夫是それこれ説破致し候様の儀出来しゅったい候ては、折角是れまで懇切に打合せ候甲斐もこれ無き次第につき、なお書中の趣、得と勘考致され、屹度きっと請合はれ候様致し度く候」(徳富同書P444)と、ここで決めた規則が他の国々からあれこれ言われないだけの内容であることを期待し、そのためにハリスに全幅の信頼を寄せたのです。

徳富蘇峰は、これについて
 
「ハリスをして、あえて欺くに忍びず、また欺くあたわざらしめたる手際は、決して凡庸の外交官の及ぶところではあるまい」(徳富同書P444)
 
と書いています。まさにこの通りでしょう。また、ハリスもこれについては、日本側からの信頼を裏切るようなことはしませんでした。

後世はそれを「不平等条約」と習う。もちろんそういった面もあるが、他のアジア諸国(清・シャムなど)と欧米が結んだ条約と比べれば、条約のもたらす利益は日本にも十分に与えられていたものだった。詳細は後述する。

ハリスは、「この規則は、関税による国家収入を第一と考え、次いで密売を防ぐように考えたもので、後日ロシア人などから、あれこれ申し入れられるようなものでは決してない」と日本側に安心感を与えます。

日本側は「それは十分に信頼しているが、この問題ほど我々に不案内なことはなく、とても面倒をかけることになり申し訳ないが、この規則とロシアと結んだ条約の一つ一つを突き合わせして、いろいろ質問したい」と依頼しました。ハリスはこれに応じます。ただし、ロシアとの条約は自由貿易ではないので、わたしの提出した規則とは異なっているところもあるということを理解した上で聞いてほしいと述べました。

日本側から提示されたロシアとの条約をもとに、日本側からいくつか質問が出され、ハリスは丁寧に答えていきます。最後にハリスは、自らが締結したばかりの米シャム条約を参考にすればよいと述べます。貿易のルールは日々変わって行くもので、それが現時点では最も新しい世界におけるルールだと述べました。

ここで、本日の長い会談が終わり、ハリスの日記によればこの日は昼の休憩を挟んで朝8時から夕方5時まででした。明日の会談も朝8時からとして、この日が終わりました。この日のハリスの日記はわりとあっさりした記述でしたが、最後のほうにこうあります。

「午後は全部、各所の境界を設定しようとする徒な試みに費された。彼らは実際馬鹿々々しい、矛盾だらけな事をやるので、(後略)」(「ハリス日本滞在記(下)/坂田精一訳」P159)

開港地、開港期日まとめ

この日をもって、開港場所とその期日が一旦は、確定しました。まとめておきます。
・神奈川 1859年7月4日
・長崎  同上
・新潟  1860年1月1日
・江戸  1862年1月1日
・堺   1853年1月1日
・大坂  同上

続く

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