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3-8.「中国」との関係

オランダ船とともに、長崎で貿易を許された中国船(昔ながらの呼称「唐船」と呼ばれた)について書いておきましょう。しばらく中国史となります。やや時代をさかのぼります。

当初から「海」を閉ざした明、そして倭寇の出現

1368年に成立した中国の王朝「明」は、その当初からその志向は「海」ではなく「陸」に向いていました。前の王朝(元)末期の国内の騒乱は「海」側と「陸」側の勢力に二分されており、のちに明の初代皇帝となる朱元璋しゅげんしょうは、陸の勢力を束ねていたからでした。したがって、彼にとって海は「開く」べきものでなく、「閉じ」られているべきだったのです。

しかも、成立直後には舟山群島(杭州湾の沖合)で、海を生活の拠点とし、黄海や東シナ海で商業行為をおこなっている勢力の反乱もあり、より一層「海」への警戒感を強めたと思います。一方、この頃の「倭寇(前期倭寇)」は、朝鮮半島西岸の黄海を渡り、中国の山東半島まで活動範囲を広げていました。また、その数も1350年から朝鮮半島の高麗王朝が滅びる1392年までの間、300件あまりの倭寇があったとされています(出所:「海と帝国/上田信」P105)。

この倭寇には、海を生業としていた中国人(または、かつての「陸」に対する敵対勢力)の協力があったと推測されています。彼らは、黄海、東シナ海をテリトリーとして、朝鮮半島西岸を盛んに行き来していましたが、高麗王朝が、明成立後の武威に屈して朝貢するようになり、明朝の要請を受けて彼らを取り締まるようになると、行き場を失って日本の倭寇と協力するようになったというのです(出所:「海と帝国/上田信」P109)。

私貿易の禁止と勘合貿易

明は、1374年に「市舶司しせんし」と呼ばれる、それまで民間貿易を取り扱っていた役所を廃止し、民間貿易を完全になくし、朝貢貿易のみ、つまりは公貿易のみに制限しました。また、朝貢してきた日本(時の政権は室町幕府)に、倭寇の取り締まりを要求し、日本もそれを受け入れはしますが、室町幕府は、特に対策をとることもしなかったため、1386年には日本からの遣明使を拒絶して日本との正式な国交を断ちます。明にとって、日本は忌々しい存在になっていたのです。

洪武帝死後の3代目皇帝、永楽帝の時代になって、ようやく明は足利義満(3代将軍)からの遣明使を受け入れるようになります(1401年)。永楽帝は、洪武帝とは異なり、積極的に朝貢貿易の相手国を増やそうとしました。前述した「鄭和の遠征」も彼の時代から始まっています。そうして明との間で始まったのが「勘合貿易」です。途中中断もありましたが、それは1547年まで続いていました。派遣回数は19回を数えます。当初、室町幕府が仕立てた船での貿易も、9回目(1432年)の派遣からは、幕府だけでなく有力守護大名、寺社の出資した船も加わっていきます。11回目(1451年)の派遣は、10隻からなる大船団でしたが、12回目の派遣以降は、明が来航年とその規模に制限を加えるようになり、概ね10年に1回、派遣船も3隻程度になっていきます。13回目以降になると、細川・大内といった守護大名と博多や堺の商人によるものだけになっていきます。1回あたりの派遣は莫大な富を生むものの、日常的な貿易とは程遠いものでした。

沿岸域の隆盛

明の時代は、中国史上で江南・浙江・福建などの東南の沿岸地域にもっとも富や人口が集中した時代といわれています。特に江南地方では、農民の副業として生糸・絹・綿布の生産が急成長しました。すでにこの頃、ヨーロッパに先駆けてマニファクチュア的な作業所が存在し、賃労働者としての職人も存在していたともいいます(出所:「海と帝国/上田信」P116)。人口は、15世紀以降増加が続き、16世紀には1億人を超えるほどになっており、国内にも多くの商圏が存在していました。その中で、新たな市場、商圏を獲得しようとする商人たちの活動を国家が統制するのは不可能であり、それが密貿易を生み出した原因といっていいでしょう。

密貿易を行う商人たちは、中国本土ではなく、沿岸に近い島々を拠点として、取り締まりから逃れていました。朝貢貿易とは別に、こういった人々の密貿易船が日常的な流通を担っていたわけです。中国は、東南アジアからの胡椒をはじめとする香辛料を求めていました。のちの中国料理に欠かせなくなる「唐辛子」は、この頃の中国にはありません。国禁を犯して活動する密貿易船も、中国の食生活を支えていたわけです。

続く


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