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10-16.ハリスの蓄財

喜びと興奮と

さて、下田のハリスは、幕府のその決定を9月23日に知らされました。ハリスは、その知らせを興奮と喜びをもって「遂に最高の礼遇をもって私は江戸へ行くことになり、江戸到着後将軍に謁見して、その節大統領の書翰を呈することに決定したと私に知らせた!」(「ハリス日本滞在記(中)/坂田精一訳」P305)と書いています。

そして、将軍への拝礼作法についての説明となりますが、奉行は日本式の平伏平頭を要求(ハリスの日記には「遠慮がちに」とある)しますが、ハリスはそれに応じず、欧州の宮廷におけるそれと同様、立ったまま三度頭をさげるにとどめるとしました。奉行側の記録によると、この日ハリスは「今日に至り、初めて雲霧相晴れ候心持に御座候(「ハリス日本滞在記(中)/坂田精一訳」P308)」と晴々とした自身の心境を奉行らに告げています。

晴々とした心境は下田奉行らにもあったのでしょうか。これまでの交渉における恫喝、侮蔑にも十分に耐えてきた彼らです。それが一旦は止むと考えたら、彼らも同様の心境を抱いたかもしれません。

ハリスは10月30日、奉行ら一行を玉泉寺(領事館)に招き、西洋式の食事でもてなしています。ハリスは、この日の奉行らの立ち居振る舞いを「彼らの食卓の振舞は、ニュー・ヨークやパリ、ロンドンの如何なる社交界においても及第したであろう(「ハリス日本滞在記(中)/坂田精一訳」P326」と書いています。

ハリスの江戸出府への出立は、11月23日と決定しました。道中は陸路です。ハリスは出発間近の11月7日、日記に以下のように記しました。

ハリスの蓄財

「私の支出は年約15百弗となる。しかし、30乃至45パーセント変化する合衆国との為替相場のおかげで、私は5千弗の棒給でありながら、私の貯蓄として年額約6千弗をニューヨークに送金することができるわけだ。その上に、私は日本人から外国の金貨を、日本人がそれを受け取ったときの割合―すなわち1弗につき34セント半の割りで引き取ることによって、2千5百弗ほどの小額の金をつくっている。これを私は香港へ送金し、そこからニュー・ヨークに送るなり、あるいは売物に投資するなり、私の最も利益になるようにその処分を委ねている」(「ハリス日本滞在記(中)/坂田精一」P330)

棒給(年棒5千ドルで、支出が15百ドルなら貯蓄できる額は3千5百ドルにしかなりません。しかし、彼は6千ドルを送金できると記しています。差額の2千5百ドルはどこから手にいれたのでしょうか。

彼は日本の金銀比価の異常な接近を、自らの目で確かめ、自ら日本の小判(金)を集めていたのです。日本では1分銀4枚で金1両が交換できました。つまり、日本の金と銀の比率は1対4ですが、海外一般でのそれは1対14〜16でした。日本の1分銀4枚で1両の小判を交換、その小判を海外で銀に交換すれば、14〜16枚の銀貨となります。最大で最初の銀の4倍が交換レートだけにより手にすることができるようになるのです。

ハリスは、日本の小判をその比率によって集めていたのだと思います。2年後の横浜の開港時、外国商人はハリスがおこなっていたこの利殖方法にすぐに気がつき、通常の貿易などそっちのけで、日本の「金」漁りに熱狂するようになるのですが、それは後述します。

下田、江戸で対ハリス交渉を進めている間、長崎ではオランダとの交渉が進められていました。次回以降、舞台を長崎へ移してその様子を見ていきます。

続く


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