7-16.日露交渉の終結
外交顧問のようになったクルチウス
水野、大沢の両奉行はクルチウスと計4日間、合計で13〜14時間にも及ぶ秘密裡の会談を行なっています。奉行からの問いかけに対してクルチウスが答える形式で行なわれました。通訳は森山が務めています。その第1回目の11月1日、水野は、昨年クルチウスから提出された勧告(通商を含む条約締結)に関して、検討を始めることをクルチウスに伝えています。1年に渡って頓挫していたクルチウスの作戦が動き出そうとしているわけです。会談内容をまとめると以下のようになります。
11月1日(第1回目):前年提出された総督信書と商館長信書の趣旨の確認
11月3日(第2回目):規制の緩和と貿易の試行について
11月5日(第3回目):諸外国が望む日本への要望について
11月6日(第4回目):アメリカ使節来航延期の申し渡しについて
(出所:「和親条約と日蘭関係/西澤美穂子」P35)
最後の内容は、将軍崩御に伴う内政の停滞などを理由に、来春までにアメリカへ回答することができないので、オランダからアメリカへその旨を伝えてほしいという依頼です。もちろん、時間的に間に合うはずもなく、クルチウスもその懸念を伝えています。
日露交渉
一方、ロシア艦隊はクリミア戦争(ロシアとオスマン帝国の戦争、1853年10月開戦)への英仏参戦が予想されたため、江戸からの返答を待たずに11月23日に長崎を離れ、一旦上海へ向かいました。これは突然のことだったようで、奉行から江戸からの高官が長崎に到着するようまで待つように要請されており、そのための条件(陸地に士官用の宿舎建設)を出したり、さらには長崎湾を退去しても日本からは返書を受け取るまでは絶対に去ることはないとまで話した2日後のことでした。
プチャーチンは、年が明けた1月3日(1855年)に再び長崎へ戻ってきました。プチャーチンが長崎奉行経由で国書の返答を受け取ったのは、1月6日。江戸を出発した筒井は1月5日、川路は6日に長崎に到着します。ロシア側との第1回目の会談は1月18日のことでした。会談は2日おきに計5回行われましたが、交渉の妥結はなりませんでした。幕府は通商要求に対して、拒否の回答をします。この交渉過程でも、日本側は、国境問題の交渉に使用するために、クルチウスから地図を借用したり、千島列島と樺太に関する情報の提供を求めたりしています。通商は拒否され、国境問題にも進展はありませんでしたが、プチャーチンはこの交渉において大きな成果があったと本国に報告しています(出所:「日魯通好条約について/麓慎一」東京大学資料編集所/ https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo/17/kiyo0017-roku.pdf)。
それは、対ロシアとの「通商交渉開始の優先権」と「最恵国待遇」の獲得について、奉行との間に「覚書」を交わしたからです。交渉議題の最優先は通商に関することだったので、この覚書で一旦は目的を果たしたわけです。プチャーチンは2月5日に長崎を出港しました。
物資補給システムの齟齬
この2回目の来航の際、前述したオランダ商館を仲介させた物資補給システム([7-15.物資補給問題と軍艦発注」)に齟齬が生じました。前任奉行大沢が現場判断としておこなったことを、江戸は認めなかったのです。つまり、オランダ商館が立て替えた代金(ロシアかからオランダ本国へ送金された)を幕府が支払うというのです。そうなれば、オランダ側は二重に代金を受け取ることになってしまいます。クルチウスはその受領を拒みます。森山栄之助は、クルチウスがそれを拒み続ければ、それを取り決めた大沢は切腹となってしまうといい、私人の立場ででもいいからとにかく受け取ってほしいと懇願し、クルチウスはそれを長崎の寺に寄進することをあらかじめ許可を得た上で、「私人」として受けとりました(出所:「和親条約と日蘭関係/西澤美穂子」P69)。
森山は、アメリカ船再来に備えるために、ロシア船が離れると再度江戸へ向かいます。
川路聖謨という人物
全権だった筒井正憲は当時75才、次席の川路聖謨は当時50才であり、実際の交渉はすべて川路が仕切った。プチャーチンの秘書官だったゴンチャロフは、「日本渡航記」の中で
「川路は非常に聡明であった。彼は私たち自身を反駁する巧妙な弁論をもって知性を閃かせたものの、なおこの人物を尊敬しないわけにはいかなかった。彼の一言一句、一瞥、それに物腰までがーすべて良識と、機知と、炯眼と練達を顕していた」(出所:「ゴンチャーロフ『日本渡航記』を再び読む/沢田和彦」/一橋論叢第114巻第3号)
と記している。川路は幕府崩壊後、将軍への忠誠を貫いてピストル自殺を遂げた。幕府に殉じた唯一の幕臣といわれる。ピストルを使ったのは、中風を患って切腹ができなかったためらしい(出所:「沢田氏同論文」)。その「義」の人のイメージと相違して、彼の遺した日記からは、妻や子、そして母に対する深い情愛と笑いであふれている(出所:「江戸という幻景/渡辺京二」P116)。
続く
タイトル画像は川路聖謨