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13-8.第3回目(1月28日)その2

開港地をめぐる応酬その4(新潟開港の提案)

このあと、日本側から日本海に開く港として新潟港が挙げられ、地図上でその地勢、人口などが説明されました。ハリスは確定するのは実地検分が必要でもあり、控えとしてもう1ヶ所の要望が出されました。そして、先の4ヶ所のうち京都を除いた以下、江戸・品川・大坂を持ち出してきます。ハリスは新潟の開港を喜ぶより、それらにおける譲歩こそが必要だったからです。ハリスは一気に以下を述べます。
 
「江戸・大坂の両所は条約に載せずし候ては、とても十分の条約とは申し難く候」、「江戸御開港、随分時を延ばし候事、如何様いかようにもつかまつく候」、「場所の名と年月を、書面中にしたためず候ては、とても条約は出来難く候」(「近世日本国民史/堀田正睦(四)/徳富蘇峰」Kindle版P256)

そしてこの最後に、彼の常套手段である英・仏を引き合いに出してきました。

「江戸と申す事相立たず候ては、必ず英・仏等のものども渡来いたし、なお別段条約取結び候様相成り申す可く、左候さそうろうては、今般御取替せ申し候せんこれ無く候」(徳富同書P256)。

繰り返されるそれに、日本側もうんざりしたかも知れません。ハリスはさらに「江戸は今から5年後、大坂も同様にする」と言い、「和親条約は未来永劫のものだが、貿易に関する条約は年月を限っておこなうことでも問題ない」と言うのです。

草案には14条に、1872年7月4日以降、どちらか一方の申し出による条約改正の提議についてが謳われています。つまり、「その時まで9年間(注:この5年後の1863年からの年数)に限った開港ともなるので、うまくいかなかったら閉じればよいではないか」とも述べました。単に表面を糊塗するような言い方です。

しかし、日本側は「3港のみというのは、既に決まったことなので、その申し出についての即答は難しい」と返答しました。また、ハリスの望んだ「品川」も遠浅のため、港としては相応しくないことを説明しました。

ハリスはさらに続けて「京都の件は、他の条項が決着するまでしばらくおいておくが、その件も是非考えていただきたい」と述べます。

京都を市場として開く事にもハリスはこだわり続けました。

そして「私も大統領も、あくまでも日本のためを思って申し上げていること。それを拒めば、日本にとって危険な事態が及んでこないとはいえない。江戸・京都・大坂を開くことを重ねて言うのは、その危険を回避してもらうためなのだ。私とこの内容で結べば、他の国々があれこれ言ってくることはないし、もし何か言ってくることがあれば、アメリカのミニストルがその解決の一助を担う」(出所:徳富同書P259)と述べます。

またしてもヨーロッパの脅威を煽ったわけです。

岩瀬の反撃

ここにおいて、岩瀬が敢然と反論します。「いつもいつもヨーロッパの脅威をいうが、それには納得しかねる。ヨーロッパ諸国においても、同じ人間にかわりはない。誠意をもって対応説得すれば理解してもらえないはずがないではないか」と返したのです。

原文は以下です。
 
「毎度毎度外国より危難きなん申し懸け候おもむき、申し聞けられ候へども、修理しゅり(筆者注:岩瀬のこと)において、合点いたしかね候。欧羅巴ヨーロッパ諸州の人にても、同じ天地間の人に候へば、誠実を以て引会ひ候うえは、絶えて子細しさいにこれ有るまじと存じ候」(徳富同書P260)

おそらく、岩瀬も毎回繰り返されるハリスの物言いについて、内心では不快極まりないと思っていたはずです。日本側からすれば、会心の一撃ともいえる反論だっと思います。

この日の成果は、「異存なし」としてそのまま受け入れられた草案の第2条のみといえます。日本側の大きな課題(開港場所とその時期)のみがクローズアップされたような状況でした。

次の会談は明後日1月30日となりました。

ハリスはこの日の日記の最後にこう書いています。
 
「日本委員は、江戸と大坂の開市はとても困難で、この困難は克服されそうにも思えないと語った。彼らは、それは不可能なことと考えた。それ故に彼らは、それについて一日考えさせて呉れと言い、今月の三〇日、土曜日に私と会見しようと言った」(「ハリス日本滞在記(下)/坂田精一訳」P137)

続く


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