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12-11.官僚からの意見書その2(岩瀬と水野からの答申)
さて、長崎で日蘭・日露の追加条約を結び、江戸への帰路途中だった岩瀬忠震は、このハリスの重大陳述についての情報を天竜川あたり(静岡県)で知り、12月21日(旧暦11月6日)付けで、意見書をしたためています。その内容は、「きわめて具体性に富んでいる点において、関係有司の意見の中でも出色である」(「日本開国史/石井孝」P251)でした。
岩瀬が何を語ったのかみてみましょう。前章で述べたように、この時の岩瀬は、長崎でとりまとめたオランダ・ロシアとの条約内容について自信満々であり、この線で来たるべきイギリスとの交渉をまとめて見せると思っていた時期です。イギリスではなく、先にアメリカが相手となりましたが、アメリカともその線でまとめられると考えていたはずです。それだけでなく、岩瀬は自ら考える日本の将来の実現について、ハリスの言説を絶好の好機と考えていたと思います。
新たな開港場所
岩瀬は、貿易についてはオランダ・ロシアと結んだ追加条約の線で問題ないはずだから、取り立てて意見することはないと言い切っています。ハリスの望む自由貿易とは大いに異なるものではありましたが、この時点で岩瀬がそれを推測できるはずもないので当然です。
ついで、ロシアやアメリカが下田に替えて新たな港を開いてほしいと望んでいたこと、並びにその理由もわからないでもないので、それについては異存はない。ただし、新たに開く港として大坂だけは避けなければならないと言います。岩瀬は諸外国が「大坂」を開くことを要望してくるはずだと考えていたのです。
なぜ大坂は避けなければならないのでしょう。もちろん、京都に近いことをその理由の一つには挙げています。しかし、それよりも重要なことは
「日本全国の利権七、八分は、同所に帰し候勢これ有り候場所にて、古来より金主等も夥しく、長崎表交易の利潤も八、九分は、大坂商買の手に落ち候儀に御座候処」(「近世日本国民史/堀田正睦(三)/徳富蘇峰」Kindle版P445)だと言うのです。
つまり、今でさえ天下の利潤のほとんどが集まっている大坂を、外国との交易に開いてしまえば、大坂のみ一層繁盛し、江戸をはじめ全国は衰微してしまうことを恐れたのです。その観点から、外国との交易を新たに開く港を検討すべきであるとしたのです。
その地は「横浜」
岩瀬によれば、その地は「横浜」でした。外国官吏を江戸へ駐箚させるという要求もあり、江戸に近い横浜にすればそれを抑えられるという目論見もあります。しかし、横浜開港を推す岩瀬の目的は別のところにもありました。むしろそれが真の目的と言っていいでしょう。
「内には日本全国の諸物尽く外国品替への為に持運び、外には万国の貨品すべて江都の捌き方によって全国え配賦致し候様なされ、天下の利権全く御手許に帰し、且つは御膝元近くの儀故、其の時々の弊害も速やかに相知れ候儀故、聡明を蔽ひ候患ひもこれ無く、速やかに御措置の次第も相立ち、善悪とも御取締りも宜しく、且つ眼前に万国の船々入津致し居り候儀につき、英国龍動等の振合ひにて」(徳富同書P447)
すなわち、岩瀬は大坂に握られている経済的利権を江戸に移そうとしたのです。江戸の眼前である横浜を開けば、そこはロンドンのように賑わうはずだと言い、続けて
「武備の精錬自然怠慢相成らざる気分に推移り、士気も一層凛然と罷り成り、内海・陸手とも、御備へ向きも自然厳重に相立ち、又は外国の船々渡来の内、軍国の利益筋新奇発明の品もこれ有り候へば、江都近くの儀故誰にも手軽に相学ばせ候儀も出来」(徳富同書P447〜448)
武備に精励、士気もあがり、海陸の防備も厳重となり、軍備の発明品も簡単に学ぶことができるようになるはずだと述べます。そうして次のように言います。
幕府権勢の復権
「すべての精美(筆者注:整えられた仕組み?)先づ江府に御採りなされ候て、闔境(筆者注:国全体)え推し及び候手順に相成り、天下の権勢愈々御掌握に帰し候実事これ有るのみならず、上は京師(筆者注:京都)え対せられ、天下の難とする事を、御手許に御引受けなされ候て、宸襟(筆者注:天皇のお心)を休ませられ候御大義御美徳相顕はれ、諸藩末々まで、一言も申し上げ様これ無く、下は天下の利潤を御膝元に帰し、万世の利源を興し、中興一新の御鴻業も、これに従って相立ち候御基本と存じ奉り候」(徳富同書P448)
岩瀬は、外国との貿易を通じて幕府権勢の復権を考えており、そのための外せない要件として横浜の開港を考えていたのです。これはまさに「幕府内部で一頭地を抜く積極的見解」(「日本開国史/石井孝」P253)でした。
水野の答申
一方、岩瀬とともに日蘭・露との交渉担当者であった水野忠徳も、江戸帰府後に意見書を提出しています(1月2日付/西暦)。しかし、岩瀬とは対照的なものです。
水野は外国官吏の江戸駐箚を強く反対し、開港場もできるだけ江戸から遠い場所にすべきと言います。大坂を開くことにも反対で、新たな開港場を紀伊、伊勢、志摩あたりに求めるべきだと。岩瀬の言う横浜開港にも反対し、やむを得なければ浦賀を開くべきだと言うのです。また、江戸以外を開けば江戸が衰微するという岩瀬の意見に対しても、「既に江戸は人口減少策をとっているくらいだ」として、これ以上商人が増えるのは好ましくないと、岩瀬の先の意見書の全てに反対する内容でした(以上出所:石井同書P253)。
長崎での条約交渉中、この両名は激論に及んだと前述しましたが、水と油のようなこの両名が共に交渉担当者であったことに驚くほどです。それほど、水野の意見は岩瀬とは真逆のものでした。
※岩瀬はこの水野の意見書に対して、直ちに反論を提出している。水野は、1858年1月17日勘定奉行の職を解かれ、田安家家老へと転じられる。その日はハリスとの交渉担当者として、井上清直、岩瀬忠震が任命された日だった。
続く。