13-14.第7回会談(2月4日)
会談前の井上の訪問
この日の朝、井上がハリスを訪れました。正式な会談前に内密に訪れたのです。ハリスの日記にはこうあります(内密なので、日本の議事録にはありません)。
「今朝早く信濃守(筆者注:井上)が内談のため来訪した。城中では保守派の間に激しい反対が起り、これまでの譲歩に対し大いに憤慨していると彼は言った。もし、貴下が京都の開市とアメリカ人の国内旅行権を固執するならば、貴下は条約全体を失う大きな危険をおかすことになりはしないか。(中略)我々が忍耐して、現在の条約を国民の間に穏やかに実施して行ったなら、江戸開市の指定期日までに、この二つの論争問題が困難なく許容されるであろうことは疑いを容れぬし、この二問題は幕府によって拒絶されたものではなく、単に実施の好機を待つために延期されるに過ぎないのだとも言った」(「ハリス日本滞在記(下)/坂田精一訳」P151)。
井上は、前回の議論からこれからの交渉に大いなる不安を抱いたのでしょう。この日の交渉の前に何とか落とし所を見つけようとしたのだと思います。もちろん、彼の独断ではなく岩瀬らと相談の結果でしょう。
この時までに既に1年以上のハリスとの付き合いのあった井上がその役となったのだと思います。この時、井上は「国内旅行権を与えたら反乱を引き起こすということは、推測ではなく確信なのだ」(出所:「ヒュースケン日本日記/青木枝郎」P252)とハリスに告げています。ハリスも驚いたのかも知れません。
そして「もし条約の他の部分が、私の希望通りになるのなら、その二問題については日本側の希望に応ずるよう努力する」(出所:ハリス同書P151)と答えました。
条件付きのハリスの譲歩
当然のことながら、井上、岩瀬らは交渉内容を報告していたはずです。そして何を承諾し、何を拒絶するかを話し合っていたはずです。交渉後の夜なのか、それとも交渉日の午前中だったのか。彼らは何の準備もせずに漫然と交渉に臨んだわけはなく、海防掛のみなのか、あるいはそこに堀田も同席していたのか否かなどわかりませんが、会議はおこなわれていたに違いありません。
また、交渉の過程も諸大名へも適宜報告され、それに対する諸大名からの意見書も「幕末外国関係文書之一八」には多数記録されています。
条件付きとはいえ、ハリスから一定の譲歩を引き出せた井上は、胸を撫で下ろしたと思います。
会談開始
ハリスの日記によると、この日は午前と午後の2回にわたって会談がありました。午前中の会談での冒頭、岩瀬から今朝の井上へ与えたハリスの譲歩に対して礼が述べられています。これを受け、ハリスも、開港地それぞれの遊歩範囲は、その地において定めるということを条約に記し、アメリカ人の旅行の件は取り下げること明言しました。
次いで議題は第三条の開港地、居留地に移りました。
居留か逗留か
日本側は、「居留」は開港場所に限ることとし、それ以外では「逗留」とする、並びに逗留のための居宅などはこちらで用意するが、居留用のそれは用意しないと述べます。居留は永住、逗留は一時的といった明確な差をここでもつけたわけです。
ハリスからは、「居留のために開く場所、逗留のために開かれる場所と記そう」と同意に至ります。そして、その場所ごとに開く期日を記載し、江戸においても開かれる期日を記し、その場所は後日公使と交渉の上取り決めるということが合意されます。ハリスもここまで譲歩したわけです。また、居留地における囲い、役人の見張りなどもおこなわないことも条約に記されることになりました。
貿易方法と制限
ハリスからは、貿易一般についての障害があるか否か尋ねられました。それに対し日本側は、特にはないが「米・麦並びに棹銅は禁制としたい。ただし、銅の細工品はこの限りではない」と返答します。米も麦も日本人にとっての主食ですし、「銅」は兵器の国産化等により、一層の需要が高まることを見すえての処置でした。
ハリスは、米について「不作の時ならば、その30日前に輸出ができないことを通知すればよく、そうでないときは僅かでもよいでの商売したい」(出所:「近世日本国民史/堀田正睦(四)/徳富蘇峰」Kindle版P363)というのです。
しかし、「米は国人常食と致し、殊に年々産出する処、地力かぎりこれ有り、僅かに国民の用に給するに過ぎず。」(徳富同書P364)として、輸出をすれば、国内に差し支えるのは明らかなので、欠乏品として渡来船へ、あるいは居住者用へ供するのは問題ないが、貿易品としては難しいとして拒絶します。
ハリスは引き下がりません。「不作の時などは、ジャワ島などから輸入する道も開ける」と反論しますが、米の禁制をしなければ日用に差し支えると、「衆庶の評論相起り穏やかならず」(徳富同書P364)として応じませんでした。
続けて「大麦、小麦もあるか」とハリスは尋ねます。日本側は、両方あるが麦は米のとれない土地での常用であると回答します。ハリスはここで、米・麦の禁制を承諾し、銅の禁制についてもオランダ・ロシアへ許可した範囲内では許可してほしいと述べ、日本側も了承しました。これは、日本政府の支払い手段としてのみ銅が使用されるということです。
関税について
次いで、草案題4条の関税(運上)に話が移ります。ハリスからは、貿易品についての関税をこの条約に添える貿易規則どおりに支払うということを、条約に明記することを提案され、日本側も承諾しますが、「運上所役人の鑑定精しからざれば、荷物の値も定め難く、外国にては、如何致し候や」(徳富同書P369)とハリスに尋ねました。
この点は日本側も極めて暗いところで、ハリスから一から教えてもらわなければならない問題でした。こんな質問をしています。
「たとへば砂糖百俵持渡り候ものこれ有る可く、右の俵数委しく改め候儀は、とても始終行届き申すまじく、しかし改めず候はば、砂糖にこれ無き品など隠し置き候事に至る可きか、如何。右様の儀は外国にては如何致し候や」(徳富同書P370)。
そういった質問に、ハリスは丁寧に回答を重ねています。また、日本の役人は「幼年より文武百技を相学び、商売筋の儀など、絶えて意中に挟まず。外国の官人は如何致し候て、商売の道に熟し、鑑定等出来致し候や」(徳富同書P372)とも、ハリスに尋ねていますが、これなども、非常に正直な彼らの胸の内だったと思います。
この質問にハリスは「まず国内で商売に詳しい者を探して、鑑定ができるようならば取り立てればよい」と言い、さらに「テレグラフを使えば、遠いところからでも詳しい者へ問い合わせすることができる」(出所:徳富同書P372)と答えています。
「テレグラフ」、即ち電信ですが、井上も岩瀬もその知識はあったはずなので、即座に納得できたものと思えます。
続く