10-11.江戸での協議
決まらぬ方針
これまでに、ハリスからは3通の出府要求が届けられています。この再三の要求にも江戸は拒否の姿勢を貫き続けました。意見が決まらなかったからです。
堀田は当初から出府許可を主張していましたが、阿部は出府に消極的でした。阿部には、徳川斉昭の猛反対という事情があったからです。彼を説得する自信がなかったと思います。ここでも、諮問を受けた海防掛の目付系と勘定系のグループが対立します。通商開始へ舵を切ったことと、外国人の出府は全く事の性質が異なります。
目付系の出府を認める意見
目付系は、ハリスの最初の出府要求(1856年10月25日付)に対して、即座にその許可を上申し、続けて「ハリスの出府を許可した以上は、すべて締約国の外交代表の出府を認め、老中以下と応接し、登城させ、待遇を厚くすれば『日本人は外国人を仇敵の如く存候との積疑も氷釈』し、以後の交渉も円滑に進捗するであろう」(「日本開国史/石井孝」P223)とするほどでした。
これは、その直前下田でハリスやファビウスと会談した岩瀬の意見が、目付系海防掛全体へ及ぼした影響だと考えられます。また、前述したように貿易取締係が任命され、貿易調査に乗り出そうとしている時期です。目付系からは翌年1月、5月にも重ねて出府許可を力説した上申が出されています(出所:「日本開国史/石井孝」P224)。
1月の上申には「これまでオランダ甲比丹へ許していたものを、和親条約の締結国の官吏に許さなかったら、その非はわれにある」(出所:「幕末政治論集/日本思想体系」P44)とまで書かれていました。
勘定系の出府を認めない意見
一方、勘定系はハリスの出府を認めたら、他の外国へも認めざるを得ず、しかも江戸市中を歩き回られたら「御武威もなくなり、国持大名がどう思うだろうか」として、出府を拒否し下田奉行に交渉を委任すべきであるとの内容で、「彼らの礼節は我らとは雲泥の差。驕慢な夷人がこちらの指図に従い神妙でいることは考えられない」(出所:「日本開国史/石井孝」P224)と、いわゆる攘夷意識がみられるものでした。
大勢はこの出府を認めないという意見にありました。したがって、江戸は、拒否の回答をせざるを得なかったのです。
堀田の再度の諮問
1857年3月29日、堀田はあらためて老中達書として、評定所一座、海防掛、長崎・下田・箱館奉行へ以下の内容を指示しました。堀田はまず「イギリスが広東を焼き払った」件から述べます。
これは、2月28日にクルチウスが長崎奉行へ伝えた内容(アロー号戦争、後述)です。堀田はこれを「今更の事と考えず、外国人の怒りが積もれば、広東の二の舞となりかねない危機と考えよ」から述べ、次いで「寛永以来の御祖法は変わり、諸外国と和親条約を結んでいる以上は、新たな交際方法を考えなければならないのは当然である」とし、続けて「にもかからず、とにかく従前の仕来たりに拘泥し、瑣末な事までをも難しくして拒み、外国の怒りを買うようにしてしまうのは無算の至り」だと述べました。
さらに「万が一砲声が響けば、取り返しのつかないことになる。これまでの取り扱いでは外国との付き合いが難しいことはわかり切ったことではないか。」と述べたあと「これらをよく考えた上で、今後の取り扱いについて熟考し、再度申し聞かせよ」と締めたのです(出所:「幕末政治論集/日本思想体系」P51〜52)。原文は堀田の怒りが伝わってくるような筆致に思えます。
目付系(おそらく岩瀬)の意見
これに対し、目付系海防掛は即座に応じます。徳富蘇峰によれば、「これは恐らく目付岩瀬忠震の筆になりたるか、左なくば彼の意を承けて、他に筆者ありたるか、いずれにせよ図抜けて月並みではない」(「近世日本国民史堀田正睦(二)/徳富蘇峰/Kindle版」P291)といいます。
この上申は、ハリスの出府要求への対処にとどまらず、広く世界の情勢に目を転じて日本の進むべき道を明確に記した内容でした。岩瀬は、堀田の言に全て賛意を表した上で、現在の世界情勢からみて貿易開始は避けられないため、「開港地での輸出入規則を立て、関税その他の徴収見込みを勘案して国家財政の根本を定めた上で、各国の要望に応じて貿易をすべき」とし、「現在の急務は外国に対抗しうる国勢を張ることであり、そのために貿易を始めるべき」、続いて「和親を約束したからには『四海兄弟』の情をもって外国人を遇すべき」としたものでした。
さらに、具体の急務の事柄として
西洋事情探索の者を派遣し、
国内諸港の法令を整備して関税を決定し、
外国貿易を開始し、各大名にも藩の特産品を輸出させてあまねく利益を得させ、
在留外国人の出府を許し彼らの言説の審議を見抜いて我が見分を広め、
和親の国々に我が官吏を常駐させるとともに留学生を学ばせ、
我が国からも万国に航海して輸出の利益を収め、
世界で真偽ある強国と交際を深め、孤立弱力の国を助け、
国内ではいよいよ文武を練り道徳を教え、北海道開拓に一層の努力を注ぎ、天帝に代って忠孝信義の風を以て(西洋の)貪婪虎狼の俗を改めさせ五大洲中の一帝となる(「岩瀬忠震/小野寺龍太」P82〜83)
を挙げています。まさに開国論の急先鋒でした。堀田としては我が意を得たりの内容だったと思いますが、しかしそれでも大勢は変わらなかったのです。
徳富蘇峰はこう述べています。
「もし幕府がこの大見識の上に、その大政策を定め、これをもって上は朝廷の裁可を得、下は一般の公論を示導したらんには、日本の開国史は、必ずや今少しく快濶・光明なる筋道に向かって、その歩を開展したであろう。しかるに惜しむべし、折角かかる大見識のあるにかかわらず、空しくこれを文書の上に留め、ついにこれに拠りてその大政策を建つるに及ばなかったのは、他方に水戸斉昭のごとき、巨頭の反対者ありたるためといわんよりは、むしろ煮え切らない俗吏が、幕府の上下に十万したるがためといわねばならぬ。いわゆる幕府の事なかれかしの政策が、かえって意外にも事を生じたるものにして、勝海舟のいわゆる『事去て事更に多し』とは、まさしくこのとであろう。」(「近世日本国民史堀田正睦(二)/徳富蘇峰/Kindle版」P293)
続く