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12-2.江戸到着

11月30日

川崎を出ていよいよ江戸へ入る日です。ハリスは、興奮と期待をもってこう記しています。
 
「今日は私が江戸へ入る日である。これは私の生涯に重要なエポックを画し、さらに日本の歴史において、より重大な新紀元となるであろう」。(「ハリス日本滞在記(下)/坂田精一訳」P35)
 
川崎から品川間、品川から江戸間、ほぼ連続して町が続いており、その境がわからなかったと記したハリスは、最後の中継点である品川で行列の再編成がおこなわれたあと、いよいよ江戸へ入ることになります。

見物人の多さに驚愕する2人


「品川から私の宿所まで―7マイル余りの距離―、最も完全に秩序がたもたれていた。何らの大声も、叫び声も聞えなかった。このような大群衆の沈黙は、なんとなく空恐ろしい気がした。(中略)私は、品川から私の宿所までの道筋にならんだ人々の数を、18万5千人と推算した。(中略)この計算には辻や人家の屋上にいた者をいれていない」。(「ハリス日本滞在記(下)/坂田精一訳」P39)
 
ハリスがこう推測した見物人の数を、ヒュースケンは「百万人」と表現しています。
 
「品川から※宿舎までの街道すじは、両側にぎっしりと人垣がつくられていた。それはほぼ7マイルの長さにわたり、集まった群衆は百万人とみても誇張ではあるまい。こうした途方もない人出であるのに、話し声ひとつ聞かれず、礼儀正しい沈黙があたりを支配して、われわれが通過するときにノリモンの中をのぞきこもうとして互いにひしきめあうくらいのものであった」。(「ヒュースケン日本日記/青木枝郎」P205)

※江戸で彼らに用意されていた宿舎は、九段坂下(現東京都千代田区九段南)にあった「蕃書調所ばんしょしらべしょ」であり、現在その地には碑がたっている。蕃書調所は、1856年に設立され、当初は「蕃書和解わげ御用」と称され、西洋の書籍を解読して海外事情を調査するために設けられたもの。
 
沿道には、ヒュースケンのいう「百万人」はさすがに誇張しすぎですが、そう思わせるほど非常に多くの人がつめかけたのでしょう。続けて彼はこう記しています。

「この多数の男、女、少年少女の顔の中に、一つとして反感や怒り、あるいは冷淡さをあらわしているものはなかった。いずれも江戸の門扉が外国人に対して開かれたことを喜んでいるように見えた。(中略)考え方によれば、こうして路傍に集まっているのは、ほとんどが奴隷的境遇に甘んずる人たちであり、主人の求めることは何事によらず神の命令であると考える温順な人々にすぎないという見方もあるだろう。だから、念を押しておきたいのだが、私が知り合った役人や貴族たちに中には、上下を問わず、一人としてわれわれに招かれざる客であるという気持ちを感じさせるような人はいなかったのである。それどころか、もっと寛大な友情と、もっとも懇篤こんとくな礼節をもって歓迎してくれたのだ」。(「ヒュースケン日本日記/青木枝郎」P206〜207)
 
そうして、自分の母国(オランダ)との大きな格差を書いています。
 
「もしわが国の大都会が、今日の江戸と同じ状態におかれたら、いかに多くの子供が踏み殺され、いかに多くの女性が酸素欠乏のために死んでいることであろう。アルコール飲料のふんだんな飲用によって、いかに多くの不作法が横行していることであろう。どんな騒ぎになったことか。喚声、奇声。使節の顔をめがけて、腐ったりんごはおろか、石つぶてまで飛んだにちがいない」(「ヒュースケン日本日記/青木枝郎」P208)。
 
一方、ハリスも多くの群衆の様子をみて、こう記しています。
 
「人々はいずれも、さっぱりとした、良い身なりをし、栄養もよさそうだった。実際、私は日本にきてから、まだ汚い貧乏人を一度も見たことがない」(「ハリス日本滞在記(下)/坂田精一訳」P40)。

江戸到着

ハリスとヒュースケンは、午後4時ごろに宿舎に到着しました。その門前で彼らを迎えたのは、これまで1年以上に渡っての交渉相手だった下田奉行井上清直でした。ハリスは「私の旧友にねんごろに迎えられた」と書いています。

幕府は、宿舎にあてられた調所の一室を、ハリスの意に沿うように改装しただけでなく、ハリスが下田で使っていたベッドやテーブル、椅子などを模倣した物などを新たに用意していました。井上は、「明日将軍からの使者が訪問すること」をハリスに告げました。ハリスは、自身の江戸到着と大統領から大君陛下への書簡を持参していること、その伝達のための謁見の日取りを決めたいといった内容の、下田で既に用意してあった堀田向けの手紙を井上に託しました。

続く



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