ある休日の夜、上野にて。
僕は、映画を観るのが好きで、それも特に最近はレイトショーに限ると思っている。
というのも、大抵、映画に行くのは、予定の詰まった日々から解き放たれた休日で、それもこれといった予定がない日なのだ。
生来、出不精の血がどこかに流れているらしく、そんな日に限ってどこに出かけるでもなく、一応は仕事のフォルダを開いてみるものの全く手につかない。
そうして、PCの傍に置いたiPadで、どうもつまらぬバラエティー番組を、ながら見して3時間ほどが経ってしまうのが常なのである。
また、これに加えて起床が12時であることも伝えなければ正確な状況説明にはなるまい。
つまり、仕事もせず、これといった休日らしいこともないまま、休日の太陽を楽しむはずであった時間の3分の2ほどが過ぎ去ってしまっているのだ。
今日もそうであった。
12時前に目を覚ますと、常連のセブイレに「ブランチ」を買いに行き(その内容も、がつ盛りの揚げ物系とお気に入りのペットボトルコーヒーと決まっている)、そして部屋に戻って先述のiPadから流れてくる番組をぼんやり眺めていた。
そしていつも通り、15時を過ぎると無聊に耐えられなくなり、TOHO上野のレイトショーをチェックしたというわけだ。
分析するに、これは休日を無駄にしたという感覚を味わいたくがないために(ここも人間の小ささが出ている)休日らしいことを求めてのことであろうと思う。
ディズニーの世界にも憧れず、カフェ巡りの輝かしい想い出をシェアする場も持たぬ独り者にとっては、もとより好きであることはもちろん、後日、大学の友人達と話す時のネタにもなる映画は都合が良いのだろう。
と、そういうわけで、今日も例によってTOHO上野の上映スケジュールから、前々から気になっていた「記憶にございません」を見つけ、これ幸いと席を取ったのだった。
そして、この予約を盾に、「今日は少なくとも映画を観るのだ、なんと充実した休日ではないか」と自分に言い聞かせ、夜9時ごろまでの時間をダラダラと潰したのもまた常である。
その後、家を後にする際には、全身をユニクロのジーパンとTシャツに包み、サンダルをつっかけて財布と携帯、イヤホン、鍵だけを手にそそくさと出かける。
とまあこんなところで、映画館に着きさえすれば、あとは映画が時間を有意義にしてくれるのだから気は楽である。
家にいれば缶チューハイを片手にベッドに転がり込んでいたはずの2時間が、感動の映画の旅へと様変わり。
今日も、三谷幸喜の世界に十分に浸り笑うことができた。これだけ冷めた気持ちで来た人間を、温かく受け入れるばかりか吹き出させてくれるのだから流石である。
ただ、もう慣れっこではあるのだが、この映画の後は少し厄介なのだ。
というのも、これはレイトショー。
座席を取るときの空席状況からも明白なのだが、基本はカップルしかいぬのである。
2席埋まって、1席空けて、また2席。
ご丁寧に飛び石のようになっている間に、当日予約の独り身が滑り込むのだから、カップルのうち、予約を担当した方はたまったものではないだろう。
この場を借りて言っておくが、皆さま、僕だっていつも少しくらいは申し訳なく思っているのだ。
少し話が逸れた。
そう、帰り道のことである。
レイトショー後、23時すぎのカップルである。もう、ベタベタが止まらない。
今日はまだコメディーだから良かったが、アラジンの時はひどかった。まるでそこが2人だけの世界で、絨毯に乗っているかのような振舞い。
いや、認めよう。
もうあなたが気がついているように、これは独り身の男が勝手に抱く、ただの嫉妬にすぎない。
まずそもそも、階下へ向かう満員のエレベーターの中で、そのような振舞いが目につくといっても、それはおそらく僕とあともう1人くらいが気にしているだけで、後は皆各々に2人きりの世界なのだから別に気にも留めていないに違いない。
唯一、この状況で面白いことといえば、この僕を含め2人の「部外者たち」は決まって最後、1階に着いた際、カップル様ご一行をお見送りするエレベーターボーイになるのであって、最後に2人残った際には決まって、どちらが先に閉ボタンから手を離すか譲り合うことで同志として傷を舐め合うことくらいである。
まあ、これ以上細々と述べても、自分の醜態を晒すだけであるから先に進もう。
兎にも角にも、僕はその御徒町駅へと歩を進めるカップルたちの盛況から逃げるように、秋葉原駅までの一駅分を歩くのが常なのである。
そして、面白いのが、この道中ではなぜか世の中の全ての事象にはストーリーがあるように思え、執筆欲が出てくるのである。
まあ、言ってしまえば、何事にも感化されやすい人間が、映画監督になった心地で世の中を眺め、自分もそうなれるのではないかと夢想し喜んでいるのである。
そして他でもない、今、あなたが読んでいるこの文章こそが、その産物である。
これを書き終えた今、何ら生産性のなかった1日の締めくくりに、文章を書き上げるという大業を成し遂げることで、何らかの意義をこの休日に見出すことが出来た。
もしここまで読んでくださったのであれば、その意義は少し増すのであろうし、私の自己満足にお付き合い頂いたことに御礼を申し上げないわけにはいかなくなる。
どうだろう、この取るに足らない独り身の男の休日をメタに眺めたこの物語は、映画の脚本になりうるであろうか。
もちろん否。
ただ、もしこの取り留めもない長文の意義を一つ見出せと言われるのであれば、レイトショーは良い、ということだけはお伝えしたい。
反面教師を持った今、あなたはおそらく、なんの僻みや穿った見方もすることなく素直に、夜の甘美なパラレルワールドへの旅を楽しめるだろうから。