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常に線のこちら側にいられるという高慢さ(台東区避難所ホームレス排除問題から考える)

毎日更新がまた途切れてしまっています。
いつもの言い訳ですけど、自分の人生の優先順位を意識しての結果なので、今後も無理ない範囲で継続していきたいですね。

そんな今日の話は、台東区のホームレス排除問題を受けて考えたことと、自分はどうありたいかについてです。


2019年10月。台風19号で被害にあわれた方には心よりお見舞い申し上げます。

大阪に住んでいて、今回は特にこれといった困りごとが起こらずに済みましたが、昨年2018年の台風21号の際には、被害こそありませんでしたが、なかなか恐ろしい体験をすることになりました。

あのときは、大阪市内はまさしく台風の直撃を受けました。
自宅は窓にシャッターがついている新築2年目の建物でもあり、特に問題なかったですが、一瞬停電したりして子どもはとても怖がっていました。
Twitterでも激しい風雨の被害が伝わってきて気持ちも落ち着かなかったですね。
なので、今回の台風が直撃した関東方面の皆さんの心中をお察しするところです。


ところでそんな激しい天候だった台風当日の出来事として、台東区のホームレス受け入れ拒否問題がTwitterで伝わってきました。

ことの詳細はネット上などにある記事をご覧いただくとします。

決して許されることではないですし、差別と偏見に満ちた行為だし、人権意識の欠如だし、腹立たしい限りなのですが。


線を引きたがる人々について

ここからは今回の出来事であらためて考えた僕の感想。


今回の件に限らず、何かを排除しようとする人。
線を引いて、こちらとあちらを区別しようとする人。
そういう人がけっこうたくさんいることは知っています。


こういうすぐに線を引きたがる人の特徴として
「自分は必ず線のこちら側にいる」と信じて疑わない、というのがあります。

僕はこういう姿勢がホント不思議でしょうがない。


自分は線のこちら側に常にいるという高慢さ

今回はホームレスである(住所不定)という理由で避難所の利用を明確に排除されたということでした。

たまたまその線が、家があるか、ないか、という点でした。

さまざまな出来事が個人の事情だけではない、さまざまな環境の作用によって巻き起こるわけで、いつなんどき、誰だって貧困に陥る可能性はあるのに。
それこそ今回のような大災害が起きて住む場所を失ったり、その瞬間は大丈夫であっても、何かしらの事象によって健康状態や仕事を失ってしまい、長い目でみて住宅を失うことは誰にでもあり得ることです。

それにも関わらず、明確にそこに線を引き差別し排除しようという姿勢を持つというのは、自分が「そちら側」には決してなることがないと思っているからなのかなと感じます。

少しでも、自分もそうなってしまう可能性がある、と想像力を働かせられたら、そんな線を社会の中に作るのは怖くなるんじゃないかなと。


よくある障害者差別の問題なども、自分自身がそのような状態になると想像していないのだろうなと思っていますが。

人間生まれたときは誰も一人で生きていけないし、年を取って死ぬ直前まで元気いっぱい生きてる人なんてほんの僅かで、ほとんどの人がたくさんの人に支えられて生きていくわけです。

そもそも、若くて健康な人だって、決して一人で生きているわけでもなく、たくさんの人同士で助け助けられ生きているのが人間社会です。

まるで自分だけは、自分一人の力で生きているという勘違いというか。

妙な自己責任論がはびこっている今の社会に、恐ろしさと怒りを感じるわけです。


謙虚じゃないな、と思います。


線は時代の変化で変わるかもしれない

ところで、線を引く人によって、時代によって、線の位置は変わります。
自分が線の向こう側に行くことを想像してみましょう。

家があるかないか、だと、今回の一件だと、家はある側かもしれませんが。

その線がもしかしたら
「年収が500万円あるとない」

だったら事情は変わってくるかもしれませんね。

「正社員か、そうじゃないか」とか
「白人か黄色人種か」とか
「英語がしゃべれるか、しゃべれないか」とか


今どきそんなアホな、と思うかもしれませんが。

今回の家があるか、ないか、で線を引いたのとの違いなんて、上記の例ってほんの誤差みたいな内容かなと。


世の中の基準が変わって、自分の今の立ち位置が、自分の努力や行動に関わりなく、線の向こう側に変化することだってあるかもしれないわけです。


人権(Human Rights)意識の欠如?

その昔は、この線が

男性か女性か
白人か黒人か

とかそういうところでも明確に線を引かれていたわけですが、時代も変わったわけですよね。


人権(Human Rights)とはそういう線のない状態を表しているのかなと思います。

人は生まれながらに平等。

線の向こう側もこちら側もないはず。

でも今回の一件もそうですし、線を引いて常にこちら側にいてられると思っている人たちも、この人権意識の欠如というか、不十分な認識があるのかなと思ったわけです。



一度でも線の向こう側を経験してみると

ちなみに、線の向こう側に行った経験、みなさんありますか?

こちら側からあちら側にいくと、世界の見え方が変わりますよ。

以前書いたラベリングされる経験、法人格とかだけで線引きされる経験とかも(小さな話ですけど)にたような経験かもなと思いました。

それ以外にも、僕は人生の中でいろいろ経験してきています。

差別(区別)される側に回って気づくことや、感じる経験は、僕自身を大きく成長させてくれました。

怒りの感情を感じたりすることももちろんありましたし、それが原動力になって行動を促進してくれたこともあります。
そういう負のエネルギーで前進していくといった側面だけでなく、共感力も磨かれていったように思います。

その立場になったからこそ気づける、感じることのできるものってあるのかなと思っています。
やはり一度そういう経験をしたからこそ(だからといって万能ではないですが)得られる力という物はあるのかもしれません。
ピアサポートとかに通じるものかなと考えています。


無力を認め、謙虚に(僕はどうありたいかの話)

自分自身の経験で思うことですが、人間無力な存在です。

ほんと、一人では決して生きていけないのは間違いのない事実かなと。
そういう感覚を培ってもらえたのは、ある意味この線を引かれてあちら側と区別された経験を通じてだったかもしれないなと、今は思っています。

だからこそ、僕は謙虚でありたいと思っています。

でも人間まだまだできていないので(自分の話)。
すぐに高慢な考え方になっちゃうんですよね。。。

僕自身の弱さが、僕も線を引き、向こう側と自分のいる側を区別しようとしまうことがあります。
恐れの感情や、小さな自分のプライドや安心感を守りたいからとか、理由は様々ですが。

でも、そのままだと足元をすくわれるなと思っていて。
いつかブーメランのように自分に戻ってくる時があるかもしれないのです。

なので、昔の自分のことを思い出して、常に謙虚であろうと心がけるようにしています。


繰り返しですが、いつなんどき、自分が引いた線の向こう側に行ってしまうかわからないわけで。
不確実な時代に生きる、不完全な存在の自分の弱さを認めて。
謙虚に線を引かずに、生きていきたいと思っていますし、そういう社会を作っていける責任を持って生きたいと思っています。



今日はこれくらいで、ありがとうございます。

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