快適な均質性の中に多様性を組み込むには
この2020年は海外へ出かける機会を増やしていくつもり。
夏には海外視察研修を企画し
9月にスウェーデンに行くための打ち合わせを始めています。
それ以外にも大学院の同級生らと中国の視察研修も企画していました。
そのためにまず2月に中国の深センに下見を予定していました。
航空券の手配なども済ませて、訪問先の企業なども調整
実はテンセントにも訪問させてもらう予定になっていたのです。
We Chat運営してるとこですね。
ところが
この数日メディアを賑わせている、中国武漢を中心に広がった新型コロナウイルスの影響もあり、ちょっと雲行きが怪しくなってきました。
現地だけでなく世界各地で実際に今回の件で困難さに巻き込まれている人からすると、僕の悩みは小さなものですが、どうしたものかなと頭を悩ましているところです。
さて、それに伴って情報収集していると、
いろんなことを考えるきっかけになる情報が目に飛び込んできて
今回はそれらのプロセスで考えたことについて発信しようと思いました。
主にSNSに対しての個人的なスタンスについてや
そこで感じる闇の部分の話。
またそこにあらわれる多様性の価値や、
均質化しがちな人生にどのように多様性を組み込むか、
ということについて考えていました。
SNSでも裏表のない発信
Twitterの闇は今に始まったことではないですけど。
匿名だと思うと、みなさん自由にいろいろ発信されますよね。
僕は昔から実名顔出し(アイコンの写真はこのnoteと同じ)
なので余計なことを言えないというか(笑)
ちなみに、実名顔出しなのは、
人の目を意識しようというのもありますけど、
どちらかというと裏表のない生き方を心がけたいと思ってのことです。
あっちで言ってることと、こっちで言ってることの整合性がつかないとか
周りからの目というより、自分自身の生き方としてしんどくなるなと思っています。
ただ、逆に裏表のない言動、ありのままの生き方、というのが
「なんでも思っていることを無配慮に口から発信していい」
という話ではないと思っています。
SNSにしろ、対面でのコミュニケーションにしろ、
相手あってのものですので、なので相手がどのように感じるか、
みたいなのは多少は配慮があってもいいと思って、
個人的には意識しています。
でも逆に、すべての人にOKもらえる表現というのは、
それはそれで不可能だと思っています。
多くの人には共感を得られても、
「すべての人」は無理よねという話で。
なので、無配慮に人を傷つけるのもいかがなものかと思いますけど、
周りの人に気を使いすぎて、身動きとれなくなったり、
だんまりを決め込むというのも良くないなと思っていて。
その間をとるというか、
前から中庸という言葉が大切だなと思っているのですが、
自分自身の意思はブラさず、
世の中の正しさみたいなものを考えて行動しています。
タイムラインの均質性とSNSの多様性の闇
あらためてTwitterのことを考えていました。
僕のタイムラインは、
やはり僕が好んでフォローしている人が並んでいるので
(僕の中では相互フォローという感覚はないので)
そこだけ見ると、穏やかというか、思考性が似通っている人が多いです。
でも、Twitterのうまくできている仕組みでもありますが、
他の人のリツイートや、いいねが流れてきたりすると、
その均質性は崩れていくわけですね。
今回中国のコロナウイルスの一件で、
深セン行きも控えていたことから、
意識して現地在住日本人の人とかの情報を収集していました。
自分と似たような思考性の人のものだったりすると
共感と同情をよせつつ眺めているのですが。
そういった中立的に眺めていられるその内容に対しても
RTなどが繰り返されて、ティッピングポイントというのを超えると、
いろんなのがわらわら出てきて、
なかなか気持ちが滅入ってくるわけです。
いろんな意見の人がいるなあ、というには
ちょっと極端な内容(批判、差別的発言など)も多く。
みんな同じなはずはないのですが、それでも気持ちが落ち込みます。
Twitterの闇ですね。
異なる意見は無視しがち
そのような、ある意味多様で異なる意見に対する向き合い方は
いろいろなパターンがあるかなと思っています。
①否定(反論)する。②受け入れる。③無視する。
あたりでしょうか。
受け入れる②のパターンと③のパターンは近いかもしれませんけど。
僕はわりと②か③の態度をとることが多いです。
反応しないというか、
いちいち反論するほどのエネルギ―も使いたくないとか、
そういう意識が強いからだと思うのですが。
Twitter界隈ではご丁寧に一つ一つに対して
自分の意見を言わずにはおれない人がわりと多くて。
しかも徹底的に批判したり、異なる意見をぶつけたり、
感情に任せた批判をしてくる人が多いみたいですね。
石を投げると表現されていましたけど、
そういうただのうっぷん晴らしのような発信も多いです。
なので余計に僕は③の無視する態度をとるようにしているわけです。
そして異なる意見や批判は避けようとしがち。
直接向かってくるものでないのなら余計ですけど、心が乱されがちなので。
「外れ値」がイノベーションを生む
でもそういう自分にとっての「外れ値」を無視し、排除し続けると。
自分自身の中でひたすら均質性の高い状態が保たれることになります。
たとえばSNSとかで意見の異なる発信をする人をフォローしない
(もしくはアンフォローする)とか。
ミュートにして表示されないようにしたり。
人間関係でも必然的にそうなるんですけどね。
似た者同士で集まるようになるし、
交流だって基本は同質性のある人ばかりで行われることになります。
こちらの意向もくんでくれるし、
こちらも相手の考えていることがなんとなく理解できるし共感できる、
そんな人間関係。
それって確かに変化(や負荷)がなくて生きやすいかもと思いますが、
結果として異質なものがなくなってしまいます。
すると知識の広がりや変化が起こりにくくなっていくのでしょうね。
結果イノベーションが起こりにくくなります。
イノベーションのジレンマというやつですね。
なんかAIが人間をとって変わる的な話がよくあると思いますけど、
僕はあまり現実的じゃないと思っています。
その理由としては以下のようなもの
AIはこれまでの経験データから未来を推測して
適した解を探していくというプロセスだとイメージしているのですが、
その際には徹底的にその「外れ値」を取り除いていくことになるのかなと。
もちろん人間が頭で考えても経験の積み重ねでそういう「外れ値」を
取り除きながら最適解を模索していく営みは変わらないと思うので
その点は一緒だと思いますけど。
そういう合理的な思考では解決できない突発的な偶然とか、
人との出会いとか、好き嫌いとかの思考性とか
「なんとなく」みたいな言葉で表されるあいまいさとか、
そういうのの積み重ねが違いを生み出し、
新しいイノベーションを生み出していると思っています。
均質性で快適な人生にいかに多様性を取り込むか
やはり多様性が新しい価値を生み出すというのは間違いないと。
個人的には考えています。
大学院で経営学を中心に学んでいるわけですけど、
さまざまな場面で多様性(ダイバーシティ)の価値が語られています。
しかしですよ、しかし
さきほどのTwitterのタイムラインの話でもそうなのですが、
自分自身の一時の快適さを追求すると、
異質性を排除することが楽という話になりがちです。
どのように、その快適で均質な日々に変化(多様性)を取り込んでいくか。「多様性大切」と事あるごとに呟いている自分自身でさえ、
Twitterではその多様性を避けがち(排除しがち)なのですから。
自分と異なる意見を取り入れていくことは、
思っている以上にハードルが高いことなのかもしれません。
自分の思考の傾向を知る(自己覚知)
自分自身の中にある排除の精神であったり
考え方の異なる他者を受け入れない偏狭な心とか
Twitterの他の人の発信内容を見て、僕が毛嫌いしているような要素を
僕自身だって持っているという事実を受け入れることが大切かなと。
無いことにしたくなるんですけど、そういう部分って。
でも見て見ぬ振りが一番変化を妨げるのではないかなと考えています。
きちんと自分自身の傾向を知り、
他者へ向ける批判のまなざしと同じ厳しさで自分自身を点検し、
変化していこうと努めること。
そういう姿勢を忘れずにいたいものだなと思いました。
今日はこれくらいで、ありがとうございます。
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