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卒論が黒歴史になるまで半年もかからない

 GWも終わり、何故か毎年のように訪れる5月病を予感し、その襲来とピークを過ぎ去るのを待つ日々。なんだかまた文章が書きたくなったのでこれを書いている。普段はサイトで小説ばかり書いているけれど、今回は普段の生活についての話をしてみたい。

 大学院生の登竜門(?)でもある学振の申請もある程度ひと段落するころにはちゃんと昼夜が逆転していた。限界がくるまで作業をし、朝になり同居人が起きて出社する時刻になるとふつりと糸が切れたように眠る。寝つきの悪いロングスリーパーという風変わりな睡眠パターンとお付き合いしているので、昼過ぎ〜夕方にやっと起きて、作業を再開し、たまに小説を書いて、彼が帰宅してから夕食だけ共にして、また同じように夜を明かして、何も考えられなくなるくらい脳が疲弊したところで、やっと眠りにつける。体力はないが生命力はゴキブリ並なので、こんな生活でも細々とやれてしまっている。

 質の悪い大学生のような不健康自慢はしたくはないが、割と健康維持には無頓着だと自覚している。けれど死に対する恐怖だけは一丁前に持ち合わせているので、お腹が空いているから、ではなく、死にたくないから、なんていう理由で食事をとる。お腹いっぱいの感覚が苦しくていやなので、いつも腹6分目くらいで食事をやめてしまう。かなりの偏食だけど、摂食障害といえるほどでもない。美味しい焼肉とか全然いっぱい食べちゃうし。偏食というよりは気分屋かもしれない。

 さいきんはあまり大学に行っていない。文系にコアタイムなんて概念はないから、必要なときだけ研究室に顔を出せば文句は言われない。院生室はいつも言葉の通じない留学生の誰かが窓を開けているが、窓際族かつ寒がりかつ、コミュニケーションが不得手で窓を閉めたいと言えない自分はあまりそこに足が向かない。学食のご飯も味が苦手だし、購買は夢の国かと言いたくなるくらいに物価が高い。それも大学から足が遠のく原因でもある。構内にスタバでもあればまた違った。落ちぶれた院生である。

 研究テーマをはっきりと言ってしまうと、分野の中ではかなり個人を特定されてしまうのでやんわりとしか言えないが、大学では人間の悪意について研究している。具体的にどんな悪意か、っていうのは内緒にする。要は、人間のウェットなところ。気持ち悪いところ。表向きにはそれを見せていなくても、奥底に根付くルッキズムの存在とか、自覚のない差別・偏見。ストーカー行為。暴力。依存。愛の逸脱。そういうものに関する面白い論文を見つけると、ゾワ、としながら、おもしろい、と思う。事実は小説よりも、というところだろうか。青園の小説を読んでくれている方にとっては多分解釈一致な気がする。自分でもそう思う。

 研究の社会的意義をよく申請書や論文で書かせられる。表向きには、この研究によって社会にはこんな良いことを還元できますよ、なんて書いたりするけれど、心の中では社会の役に立ちたいとか、そういう気持ちってあんまりない。知りたいから研究する、じゃだめなの? 社会の役に立たないと研究しちゃだめなの? 実利的な部分だけで社会って動いているわけじゃないんじゃないかな。そんな純粋な疑問を押しとどめながら、自身の研究の意義をそれらしく唱えている。だって、大人だもん。

 研究のことで思い出したけど、学部を卒業するときは卒論を提出した。卒論、といったらすごく高度でハードなイメージがあるかもしれないけれど、自分はそういう苦難をあまり経験せずにさらっと卒論を提出したような気がする。卒論自体、早めに着手していたのもあって4年の夏前にはほとんど終わっていたので、それを適当に修正したりしなかったりしながら、時期を見計らって、今日卒論だしまーす、と腑抜けた言葉と併せてふわりと提出。それでも全く頑張らなかったという訳ではなかったので、95点と100点の違いってほとんどないから、という適当な理由で担当教員がつけてくれた100/100の数字にはさすがに心が躍ったし、論文を小綺麗に冊子状に綴じたときもうれしい気持ちになった。2位とは僅差だったけれど、100の数字に後押しされて決まった首席の2文字。すでに決まっていた、大学院への進学。思えばこの頃は全部が順調だったし、進学したらもっと知を深めながら仲間とともに楽しい研究生活が送れると思っていた。

 けれど卒論が黒歴史になるのに半年もかからなかった。院進して担当教員が変わり、すぐに発覚する、卒論のデータの穴。サンプルサイズの少なさ。分析の甘さ。論理の破綻。けれどこのデータで今度は雑誌投稿論文を執筆しなければならないし、学会発表もしなければならない。そうやって、自身のデータの穴をうまく隠し通して誤魔化しながら、研究発表の場をやり過ごしたりしているうちに、もうやめてくれ、と心が悲鳴を上げる。過去の不完全なデータを擦りまくって業績稼ぎをしている自分に嫌気がさす。新しいデータをとったら良いじゃん、と思われる方もいるかもしれないが、それはまた違っていて。文系って、理系とはまた違う苦しみがあって、そう簡単にぽんぽんとデータをとると論理が破綻するので黒歴史を再量産する結果になってしまう。そうやっているうちに自信すらもなくなり、人と会うのがいやになり、研究室にはあまり顔を出さなくなってしまった。当初考えていた憧れの生活とは程遠い生活を送っている。これ、人生に似てるな。

 そのうち修論を書かなければいけない。けれど修論も、博士課程に進めばまたきっと黒歴史になるだろう。今自分は、黒歴史をつくるために奔放している。なんと困ったことだ。修論が黒歴史になるにはどれくらいの期間が必要だろうか。恐ろしい。

 やらなければならないことは沢山ある。それに、突き詰めようと思えばタスクは延々と生まれる。今まではタスクが溜まっているのが気持ち悪いという理由で、割とバリバリと課題をこなしてきた人生だったけれど、最近はタスクが溜まっている状況にも慣れ始めてきた。大丈夫。ひとつひとつやっていけば良い。と、そう思えるようになったのならそれまでだけど、この無気力が病的なものでなければ良いと願うばかりだ。なんとなく毎日を過ごせているから、きっとこれが今の自分のペースに馴染んでいるんだと信じたい。別に病んでいるわけではなく、内省が多いだけ。

 おしゃれな生活とは程遠い。書類とメモとお菓子の抜け殻、そして思考が乱雑に散らかる部屋に住まい、地を這いつくばるようにしてPCに向かう日々。ていねいな暮らしはできた試しがない。だが財布のなかとPC上のファイルだけはきれいに整理してある。変なところでまじめなので。そういう、細かい部分を守って、無理をしない範囲で生活していきたい。楽な方向に流されることだって悪くない。

 そろそろアウトプットはお腹いっぱいになってきたので、このあたりで筆を置き、5月病の山登りを再開しようと思う。おやすみなさい。

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