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文章を構成するもの

 Twitter (X) の140字がどうしても短く感じてしまう。だってあれって、全角1文字が2文字として計算されちゃうもんね。日本語の意味保持レベルが高いからそういうことをしている? だとしたらセンスあるね、イーロン。

 いろんなことを書きたい欲が爆発してしまって、衝動的にアカウントを作って、衝動的に書いてしまっている。Twitterのフォロワーは正直多くないし、これを読んでくれるのはそれよりももっとずっと少ない人数だと思うけど、自分にとっての備忘録として置いておこうっと。そのうち消すかもしれないけれど。


 小説を書いている人はたぶん、いろんな活字をよんで、いろんなことを吸収してるんだと思う。青園名義のTwitterをはじめて、いろんな人のアカウントをひやかすように見ているけれど、やっぱり、○○の小説が良かった、とか、○○の映画が良かった、とか、そういうことを呟いては、新しい世界を垣間見ているひとが多い印象だった。


 じゃあ青園は普段どんな言葉に触れているかというと、実はそこまで創作物と交わっていない。最後に映画を見たのは数年前に元恋人とみた「空白」が最後だし、小説は1年前に読んだ「死にたくなったら電話して」が最後。やっぱりうそ。オーディブルで「正欲」と「乳と卵」は聞いた。でも、それくらい。もっとあるかもしれないけれど、どうせ、片手で数えるのがやっとなくらい。

 嗜好する作品はどれも話の内容がヘビー級だから、一度読んだらしばらく何も読まなくて良いやって思っちゃう。ていうか最近人気を博しているコンテンツって、読者に考えさせる作風のものが多くない? 重すぎて一度に何個も背負えないよ。勘弁して。

 何が言いたいかっていうと、とにかく、あんまり作品に触れてないなって思った。それこそ、歳を追うごとに。中学生~高校生のころはそれこそ携帯小説が大好きで、魔法のiらんどとモバスペブックを行ったり来たりする毎日だった。一番好きなのは、モバスペブックにあった「まさか彼女が、」という作品。同じクラスの神崎さんという女の子が万引きで捕まるところからスタートする作品。残念ながら、作者様が作品ごと消してしまってもう二度と見ることができないけれど、どんな内容でどんな結末を迎えたのかはしっかり覚えている。作品がなくなってしまって、すごく、すごく悲しかった。

 それがずっと心に残っているから、自分の作品は恥ずかしくなっても多分消さないし、消せないと思う。自分の作品が誰かにとっての一番になれるだなんていう傲慢な自負があるわけじゃないけど、もし創作活動をやめることがあったとしても、自分の作品は残しておきたいと思ってしまう。

 話が二転三転するけれど、昔は舐めるように見ていた創作物が読めなくなった。その理由の一つに、学問があったように思う。青園、実は学問ガチ勢でして、ふわりとした伝え方しかできないけれど、簡単に言ってしまえば、青園は人文学系の大学院生。哲学、心理学、行動科学、あと進化論あたりの知識はたぶん、そこら辺から100人引っ張ってきても絶対にトップになれる自負がある。学部は首席で卒業してるから、こういう傲慢な自信がついちゃうってわけ。これ、自慢ね。悪口言わないで。サークル活動とか、友達と深夜まで飲み明かしたりだとか、そういうキラキラキャンパスライフを犠牲にして、貧乏ゆえにバイトに明け暮れ、泥をすすりながら手に入れた成功体験だから。その是非はともかく。

 学問って、活字なんです。小難しい文章を自分のあたまの中で理解したり、論文の要約をしてみたり。それに日本でやる学問ってわりと斜陽だから、論文は大体英語で読んだり書いたりしないといけない。文系学問は特にそうで、書いた文章は真っ赤に添削されてかえってくるし、冗長な表現とか曖昧なことばを使うとすぐに糾弾される。そうやっていると、活字中毒だとしても、多分飽和していやになる。つかう知的リソースが、小説のそれとは比べ物にならない。

 あたまの中を空っぽにして、認知資源にすき間を生むには、アウトプットが必要。だけど、学問でのアウトプットをするにはまだまだひよっこすぎてうまくいかない。そんな青園のアウトプットの場が、魔法のiらんどでの活動だったりするわけです。何かの作品のあとがきでも書いた気がするけれど、自分の書いた文章を添削されずに、否定されずに読んでもらえる空間が心地良いんだと思う。これがありのままだと思えるんだろうね。

 いつも知的リソースのぎりぎりを増やしたり減らしたりしながら生きているから、創作物を受け入れるための隙間がないけど、アウトプットだけは継続してやっていきたい。今だって、本当は大事な書類作成をしないといけないのに、現実逃避のためにこんな長ったらしい文章を書いている。

 だから、自分の作品は何から影響を受けているのかというと、基本的に学問ベースになっているのかなと。顕著なのが、現時点の青園作品で一番伸びている「性、喰らう夢」。あれは、欲求階層説とか、動機付けとか、学習理論とか、進化論とか、フロイトの攻撃理論とか、そういう知識ベースの上に丁寧に丁寧に積み上げた結果ですよね。まあ、言ってしまえばこれらの理論も古いっちゃ古いのですが。

 創作物を受け入れるすき間がない、と言いつつ、魔法のiらんど上のランキング作にはさらっと目を通しています。その中で思ったのが、作家様にはそれぞれ文章の個性があるということ。作家が別名義を作ったとき、一部の読者に気づかれてしまうのは、たぶん、その作家独特の文章のリズムが隠し切れないからだと思うんです。それって、めちゃくちゃ素敵なことじゃないですか? いつかこっそり別名義を作って、無事に垢バレしたいものです。

 名前は挙げられませんが、かわいくてポップな文字で毒気づいたストーリーを書く作家さま。ひとつひとつの文字が意思をもって心臓を貫くような文章を書く作家さま。大人っぽくて色気漂う文章を書く作家さま。比喩表現のセンスが鋭く磨かれている作家さま。ふんわりとした空気をまとって軽くステップを踏むような文章を書く作家さま。作家さま、見ているのならばあなたのことです。

 人生のなかで積み上げてきたインプットが違うから、それぞれ味のある文章が書けるんだと思います。良いね。文章って人生。

 じゃあ、自分の文章ってどんな文章? と考えると、自分の文章を客観視できなくなるのが人間というもの。自分ではわからない。ちなみに学術的な文章はてんでダメで、大学院の担当教員には「田舎の姉ちゃんが書いてる文章みたいだね。学術的な文章を書くならもっと難しい本を読んで勉強して。小説は口語だから駄目だよ」とアカハラには到底なりえないダメ出しを受けたことはあります。大変遺憾。放っておいてよ。ていうか田舎の姉ちゃんが書く文章って何?

 だけどいつだったか作品に、「青園さんの作品に感じられる独特の空気感が好きです。静かで綺麗な文章がすごく好きです」というあたたかいコメントが寄せられたとき、ああ、これだけでやっていけるなと思ったことがあります。たまに読み返してパワーをもらったり。これを見ているかはわからないけど、ちゃんと届いています。自分では、自分の文章が静かで綺麗なのかどうかはわからないけれど、そういうふうに思ってくださる読者さまがいるという事実で、十分やっていけます。いつか自分の文章に自信を持てるようになりたいね。


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