子連れ俄か冒険家、知床でヒグマを目撃する<北海道知床旅行記>
北海道知床半島へ向かう。
天に昇っていくような錯覚を覚えるこの道は、「天に続く道」とも呼ばれているらしい。この道を、車でひた走る。
車のフロントガラスに、何かがバシバシとぶつかっては白い跡を残していく。鳥のフンにしては小さいそれは、車体に体当たりしてくる夥しい虫の跡だった。ちょっとゾクッとする。
人も立ち入ることが許されない大自然が残る、知床。
北海道もこの辺りまで来ると、虫も人の出入りを予定していないのか。
蝶にはいつも通う道、蝶道があると聞いたことがあるが、ここは本来、虫の通り道だったのかもしれない。私たちはお邪魔している立場なのだと、そう思えば腑に落ちるくらいだ。
後部座席に座る、普段は可愛い娘たちなのだけれど、車内に入り込む虫にはかなり手厳しい。どうして自分たちのテリトリー(車内)に入ってくるのかと虫を非難する。それはどう考えてもこっち(虫)の台詞なのだと、虫の気持ちを代弁してみた。
いずれにせよ、ここにある自然からは、人に擦り寄らない、何か圧倒的に野生的な気配を感じ始める。
知床半島には、人が立ち入ることを許されていない区域が多い。世界自然遺産にも登録された知床の大自然を遠くからでも一目見ようと、クルージングはやはり人気のようだ。
知床の大自然、そこに生息する野生動物を海上から探索する。
クルージング会社からは、ライフジャケットと双眼鏡が手渡される。普段双眼鏡なんて覗かないので、正直上手く使いこなせる気がしないのだけど、首からぶら下げるだけで冒険的な気配が一気に高まってくる。この雰囲気が、きっと大事なのだ。
ライフジャケットと双眼鏡を手に入れた。俄か冒険家の誕生である。
クルーズ船の船長、クルーの徹底した安全確認が進められるのを、私たち含め俄かに冒険家となった乗客達が黙々と見守る。何となく張り詰めた、ピリッとした空気が伝染してきた。いよいよ出発だ。
クルージングを予約した辺りから薄々感じてはいたのだけれど、ここはヒグマの聖地、知床。ヒグマを目撃できるか否かが、クルージング成功の鍵を握っているとも言って良さそうだ。クルージング会社のHPを見れば、ヒグマ目撃数が運航日時別にしっかり掲載されている。要するに、客が期待しているのは「ヒグマ」なのだった。
知床の観光地には至る所で「熊注意」という看板を見かけるが、それとは逆説的に、「ヒグマは必ず見られる訳ではない」という趣旨の文言をよく見聞きした。恐らくは、ヒグマを目撃できなかったことに文句を言う旅行者が少なからずいるのだと思う。でもここは、動物園ではないのである。
とある乗客の、こんな根拠のない自信というか、淡い期待にも応えるために、クルーは目の周りに丸いアザができるくらい双眼鏡を覗く。ヒグマが出没する確度が高いエリアを、海上からくまなく捜索する。
肉眼では、切り立った岩山に立つ野生動物も、小さな黒い点くらいにしか見えないことが多い。素人だと、そこにいても気づかない可能性が高いのだ。
当然、そうだろうと思う。
しかし、クルーの経験値と勘で、ちょっと岩から顔を覗かせたヒグマも見落とさない。それに加えて、クマが隠れないうちに乗客に速やかに居場所を伝達するのだ。目撃率はこうして僅かにでも、押し上げられるのかもしれない。
運よくヒグマを発見した暁には、クルーは(おそらく)心から安堵するだろうし、乗客の満足度も一気に跳ね上がるという具合。知床の大自然を相手にしながら、人間の勝手な期待にも応える、プロフェッショナルな世界だ。日焼けしてキビキビ立ち回るクルーの仕事ぶりに、実は密かに感動していた。
船長から、ヒグマが海岸の岩場にいることが乗客に伝えられる。予想に反して、あるいは乗客を下手に慌てさせないためか、実に穏やかなテンションのアナウンスだった。
それでも、船内の空気は一変した。
岩場に来ていた一頭のヒグマは、遠目からは犬かと思うくらい小さく見える。双眼鏡を覗いて、スマホを目一杯望遠にしてやっと熊だと認識できる感じだ。
野生のヒグマを目にしているのに、どこか非現実的だ。海を隔てているし、恐怖を感じることもない。だけれどもそこに、確かに野生動物がいるはずだった。
それを頭ですぐに整理できる、自然への感度のようなものが自分には備わっていないらしい。そんな風にも思えた。
知床半島
国道も素晴らしく整備されて、バリアフリーの施設も多く子連れでも十分に満喫することが可能だった。とは言え、やはり小さな子供連れだと難しいことも多いのは確かだろう。
装備(ライフジャケットと双眼鏡)を脱いだ(返却した)時、この日の冒険は静かに幕を閉じた。
そして今思う。
あの時見たヒグマが、今も知床の海辺を歩いているかもしれない。
少し、心震える。
リアルな野生に接した興奮、自然への畏怖のようなものが、時を隔ててようやくやって来たのか。だとしたら、とても不思議だ。