成長を成長だと決めるのは誰なのか <東映『デジモンアドベンチャー』(1999年アニメ)>
最近、フィクションにおける「親」の扱いについて考える機会が多々あった。
考え方は人それぞれだが、僕が最も嫌いなのは
「子供が親の愛情を理解していなかっただけで、親は正しかった」
という構図に落とし込まれているものだ。
この構図は僕が小さい頃には多用されてきたもので、
反発する子供 VS 自分のエゴを押し付ける親
子供の成長→「親は自分のことを思ってくれていたんだ!」
といって愛情に気づく的な三文芝居。
親のエゴについてはノータッチで子供側に問題があったかのような表現になっているのがすごく嫌だ。
理不尽なことをしていても、親だから許されるのか。
子供が親の所有物であることをよしとする感じを受ける。
現実、親がそうなってしまうのは仕方がない側面はあるように思う。
・子供の自主性を重んじ、一人の人間として扱うこと
・子供を教育すること
双方を両立させるのは難しい。一定グレーな部分が出るのは必定であるように思うし、そのバランスが上手くとれないのは仕方のないことだ。
親も人間なのだから。
子供が親を許すプロセスとして、
「親が正しかった」
というのを理想としてしまうのは、視野狭窄な大人のエゴであるように思う。
「親は人間だった」
ということに気づき、それを許せるようになることが大人に近づくことではないだろうか。
僕には、その方が健全に見える。
一言コメント
すべてのエヴァンゲリオンにさよならしてきてセンチになっている。