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病について語るとき僕の語ること

僕は病気を持っているので、給食は摂らない。当時は副担任の教員だったが、それでも昼は生徒と一緒に教室で食べることが推奨されていた。初日、僕が弁当を持ってきてる理由を生徒に説明しようとすると、そのクラスの担任の先生が、僕が口を開けようとするのを制止して、「特別の事情があるので、○○先生はご飯を自分で持ってきます」と言った。
当時の校長に、入職前に「病気があるので、土日の部活は極力勘弁してほしい」と伝えていた。そのときは分かった、と言っていたが、数ヶ月後に呼び出されて「土日の部活にはなるべく顔を出してほしい」と言われた。
どちらも、個々の事情を押し殺すことを美徳と感じる、昔ながらの考え方から出ていると思うのだけど、なんだか40年くらい前の日本にタイムスリップしたような気持ちになった。

僕には持病がある。食事によって腸管に炎症や潰瘍ができる病気である。以前症状が重くなったときに2回腸管を切除する手術をうけている。そのため、食べ物だけでは栄養を充分に吸収できないので、障害者手帳も取得している。

この病気は致命的なものではない。これは助かるが、自分が常に何か重りを抱えているという気持ちになる。爆弾を抱えている、というと大げさかもしれないが、それに近いのかもしれない。
前に見たテレビドラマで、20代の女性が仕事にやりがないがないと嘆きながら、金曜の夜に六本木のバーでお酒を飲んでいるシーンがあった。僕はこれを見て、少なくとも金曜の夜にお酒が飲めるくらいの体力と健康があるのを羨ましく思った。世間では花金というが、僕は金曜日の夜が、一週間のなかで一番体調が悪い。

痛みは忘れたときにやってくる。お腹が痛むとき(腸閉塞の痛みだ)は、集中することが難しくなるし、下痢気味なときは、時々トイレに駆け込む必要も出てくる。また、そういうときは自分の現在や将来について悲観的な考えになってしまう。いつまで教師をしていられるか。また手術にならないか。病状がより重くなり、障害者用の仕事しか出来ない身体になってしまわないか。(障害者枠で就職すると、仕事のほとんどが事務職だ。)要するに自分のQOLが下がることに不安を覚えるのだ。

やりたいことを、病気を理由に諦めているか、と言われたら現在のところはNOである。少なくとも、世間的に見ればやりたいことをやっている方ではある、と思う。でも今後、病気を理由に諦める可能性はある。
自分のやりたいことが出来ないというのは、ハンディを抱えている以上、ある程度は仕方ないのかもしれない。その一方で、自分に責任のない障害で、なぜ自分の選択肢が狭まるのだろう、という思いもある。

病気や障害があっても働ける社会、と言うが現状はなかなか難しいように感じる。いち労働者としても、病気の当事者としても、もう少し頑張らなくてもよい社会になってほしいと思っている。


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