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私の趣味は「議論」です

■帰りの学活

病弱だった。扁桃腺が腫れ、悪くするとそこから中耳炎へとつながる、ということを繰り返していた。そのせいで、いまも耳が悪い。

小学校低学年の頃は、月に一度は必ず休むほど体調を崩していたし、高学年になってからも、欠席のない学期はなかったはずだ。

自分が弱い存在であることは認めざるを得なかった。そんな自分の自意識に変化が訪れたのが、帰りの学活だ。

私の通っていた小学校では、授業が終わると「帰りの学活」という時間があった。先生の前で、誰かが気になることや問題行動を告発し、その相手が謝罪して終わる――いわゆる予定調和のやりとりが繰り返されていた。

ある日、Aから「BさんがCしていました。よくないと思います」という告発があり、Bも「すみませんでした」と頭を下げる。そのまま終わるはずのところ、私は思わず「なんでそんなことをしたんですか?」と問いかけてしまった。

それは、誰も期待していなかった一言だっただろう。Bは絶句し、教室全体が一瞬でシンと凍りついた。小学生にしてみれば世界のすべてともいえる教室の空気が、自分の発した言葉ひとつで変わってしまったのだ。

もちろん、その時点で私はヒーローになれたわけではない。むしろ空気を乱した嫌なヤツだっただろうし、Bを追い詰める意地悪な存在にも映ったかもしれない。けれども当時の私にとっては、「病弱で体力もない弱い存在の自分でも、言葉だけでここまで場の雰囲気を動かせるんだ」という衝撃が、妙な快感になった。

そして、その一件をきっかけに、私は「言葉で相手を揺さぶる」ことに興味を覚えてしまった。今考えれば、ろくでもないきっかけだが、それ以来、自分の中には「議論が楽しい」「言葉ひとつで世界の見え方が変わる」という実感が根づいていったのだ。

とはいえ、誰彼構わずに議論を吹っ掛けていれば、周囲から煙たがられるのは火を見るより明らかだった。おとなしくしていれば病弱な子として可愛がられたのかもしれないが、余計な言葉のせいで、嫌われたり、浮いた存在になっていった。

そこで自然と始まったのが、自分自身との「議論」である。自問自答なら、誰も不快な思いをしなくて済むし、遠慮も要らない。相手は自分なので、いくら暴言を連ねても怒られることはない。

こうして、私の中に「議論」という趣味が芽生えた。最初はひたすら頭の中で、あるいは紙に書き出して、自分なりの問いかけと答えを繰り返す。自分はなぜこう思うのか、どうすれば違う結論が導けるのか――ひたすら向き合う作業は、ちょっとした快感を伴う知的な遊びになっていった。

■LLMとの議論

自問自答は、他者と衝突することなく思考を深める手段として有効である。だが、どうしても自分の中にある前提や発想から大きく飛び出すことは難しい。思いがけない視点や未知の知識を提示してくれる相手がいなければ、議論は閉じた世界にとどまりがちなのだ。

自問自答で我慢するか、我慢できなくなって議論を吹っ掛けて嫌われるか。そんな日々を送っていたところ、思いがけず登場したのがLLM(大規模言語モデル)である。ChatGPT、Claude、Geminiなどだ。自問自答の限界を感じていた私にとっては、まさに渡りに船だった。

膨大なデータを学習したAIとの対話は、自問自答の限界を超えた思考の広がりをもたらす。些細な疑問から深遠な哲学的問いまで、あらゆるテーマに対してもっともらしい回答を返し、新しい切り口を投げかけてくれる。そのおかげで、自問自答から「卒業」できたように思えた。

もっとも、LLMの回答が常に正しいわけではない。誤った知識や矛盾した主張に遭遇することもある。しかし、そのズレすら新たな問いを生むきっかけとなり、議論がさらなる思考のステージへと展開するのが面白い点でもある。

私がLLMを使い始めたのは2022年12月からだが、その頃と比べるとLLMもずいぶんと進化した。最初のうちは「なぜ分からないんだ」と苛立つことが常態だったが、最近では「分かりすぎる」と感じる場面も出てきた。「まるでこちらに忖度しているようだ」という印象を受けるのである。

たとえば「気分障害の根絶は可能か?」という議題で、LLMは最初「社会的・心理的・生物学的要因が複雑に絡み合うから不可能」と否定的だった。しかし私が、理想的な薬やユートピア的環境を想定した仮定を提示すると、あっさり「理論上は可能」と主張を翻す。さらに気分の相対性を持ち出すと「やはり不可能」と再び結論が変わる――そうなると、不信感が募るのも無理はない。「お前には自分というものがないのか」と問い詰めたくなる。

もっとも、LLMに「自分」がないのは当然だ。ユーザーのプロンプトに反応しているに過ぎないからである。かつてはデタラメばかり返していた頃もあったが、そうした時期よりも今のほうが、むしろ「相手に合わせすぎる」ように見えて不信感を抱くというのは、不思議な話ではあるが。

現行のLLMを俯瞰すると、三つの思考レベルにおいて、それぞれ以下のような特徴があると感じている。

  1. 要因分析的思考
    ある事象の原因や要因を列挙するのが非常に得意である。「気分障害の根絶が不可能な理由を挙げよ」と求めれば、10でも20でも答えてくるだろう。ただし、いわゆるハルシネーションとして、実在しない情報を混ぜ込んだりするケースもまだある。

  2. 仮想条件思考
    「完璧な薬があるとして」「AI社会が前提として」などの仮定を与えると、その条件を踏まえて筋の通った結論を導きやすくなった。以前は、せっかく提示した前提をすぐに忘れてしまうことが多かったが、最近はかなり改善されている。ただし、ユーザーが望むように誘導すれば、都合のいい結論を言わせられてしまうという意味では、注意も必要だ。

  3. メタ思考
    これはまだまったくダメだ。議論の枠組みや前提を俯瞰し、「そもそも何を問題とし、何を定義しているのか」を先回りして整理する能力はほぼない。ユーザーが指摘すればそれなりに応じるが、LLM自ら包括的な視点を提示することは期待できない。

たとえば、ある症状を抑えるD薬がある。D薬の副反応として「吐き気」がある場合、吐き気止めとしてE薬を飲むことを検討してみる。同時服用が禁忌となる薬の組み合わせはいくらでもあるが、LLMは先回りしてそれを警告したりはしない。もちろん「D薬とE薬は同時に飲んでよいか」と問えばそれらしい答えが返ってくるが、それはこちらから明示的に尋ねない限り、抜け落ちる。こうした「先回りしたメタ的検討」の欠如は、医療情報に限らず、どの分野でも顕著である。

「気分障害の根絶」についても同様だ。ユーザーが提示した仮定を受け取って「理論上は可能」と言い、さらにユーザーが気分の相対性を持ち出すと「やはり不可能」と言う――最初から「理想的な環境と完璧な薬を想定しても、気分は相対的だから根絶は無理」という包括的回答に達してほしいと思うが、現状のLLMにそこまでを期待するのは難しい。

まとめると、LLMに知識を問うのはまだ危うい。概念や考え方を問うてこそ、LLMの強みが生きると感じる。「気分障害について教えて」といった問いであれば、ユーザーが理解するまで丁寧に解説してくれるが、「気分障害に関する文献を教えて」と問えば、存在しない文献を並べてくる可能性が高い。いわゆるハルシネーションが原因だ。

それでも仮定の話にはきちんと付き合ってくれるので、これは大きな利点だろう。ただし、うまく誘導すれば望む回答を言わせられるという危うさもある。また、メタ認知ができないことによる弊害は大きい。薬の組み合わせを自らチェックしてくれるわけでもなければ、新ビジネスのリスクを先回りして指摘してくれるわけでもない。ユーザーの見落としをフォローしてはくれないのだ。

こうした点を踏まえると、私が当初「自問自答から卒業だ」と感じていたLLMとの議論は、実際には相変わらず「自問自答」に近いのかもしれない。知らない情報をもたらしてはくれる一方で、私が想像もしなかったような視点を自発的に提示してくれるわけでもない。ユーザーの試行錯誤に伴ってLLMの結論も二転三転する。これを、「自分と一緒に試行錯誤している」と捉えるか「ユーザーに忖度している」と捉えるかで、評価は変わるだろう。

とはいえ、たとえ実質的に「自問自答」の延長だったとしても、その質は大幅に高まっていると思う。ハルシネーションがあるとはいえ、多様な知識と仮定に柔軟に対応してくれるLLMのおかげで、議論を深められる場合があるのは事実である。総じて、LLMとの議論は、自問自答型の思考にとって大いに助けになる存在といえるだろう。

■人間の議論

人間同士の議論は、LLMとのそれとはどう違うのだろう。

まず、要因分析的思考ができることは、いちおう議論参加の前提とされている。しかし、仮想条件思考に至ると「ありもしない話をするな」と咎められる場面は少なくない。さらにメタ思考へ踏み込めば、ほぼ確実に混乱を招き、嫌がられるだろう。もちろん、議論の相手によって状況は変わるのだが、日常的にはこのパターンが多いと感じる。

人間には、現実の体験や身体感覚といったLLMにはない資源がある。しかし、それらを議論に活かせるかどうかは、人によって大きな差があるのも事実だ。なにより、人間同士の議論には感情や対人関係が強く絡む。いわゆる「空気を読む」必要が生じ、突拍子もない提案や前提を疑うメタ的な指摘が歓迎されにくいのも現実である。個人的には、それはもはや「議論」とは言いがたいと思うのだが、世の中で行われている「議論」の多くは、そのようなかたちになりがちだ。もちろん、繰り返しになるが、相手次第ではある。

だからこそ、自分の思考を深めることが主目的であれば、人間よりもLLMを相手にするほうが圧倒的に楽だと感じる。空気を読む必要がなく、遠慮や気兼ねもいらない――LLMはこうした「思考実験の場」として優秀なパートナーである。

さて、そもそも議論とは何なのか、というメタな話でこのコラムを終わらせたい。

多くの人が議論と聞くと勝ち負けを意識するのかもしれないが、実際のところ「議論に勝つ」のは簡単である。なぜなら、相手が拠り所としている価値基準より上位の価値基準を提示すればよいだけだからだ。より根本的に見える原則を持ち出せば、相手の主張はいくらでも相対化できる。「それってあなたの感想ですよね?」という例のフレーズが象徴するように、相手を論破するテクニック自体は大したものではない。

価値は相対的であり、唯一絶対の根本価値など存在しないと私は考えている。相対的にしか語れない「価値」を持ち出して勝ち誇ってみても、本質的に意味はない。だからこそ、議論の意義は「価値観そのもの」を検討することにあるのだと思う。

表面的に勝とうが負けようが、「なぜその価値を選ぶのか」「自分の生き方は何に根ざしているのか」という問いは残り続ける。議論を通じてこうした根源的な問いに触れる――まさにそこに議論の醍醐味と、本質的な意味があるのではないだろうか。

さて、議論好きの私は今日もこれから議論といこう。空気を読むことも顔色を伺う必要もなく、突拍子もない仮定を示し、そもそも論でちゃぶ台をひっくり返しても怒らない、そんな相手を、今日もまた論破してやろうじゃないか。

私は「議論」が趣味です。


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