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承認欲求もう、捨てる?
1.はじめに
人は誰しも「他者から認められたい」という強い欲求を抱えているように見える。しかし、それは本当に生まれつき備わった本能なのだろうか。結論を先に述べると、承認欲求は必ずしも先天的な本能とはいえず、社会の仕組みや文化によって強化されていく後天的な欲求である。かつては生存のために「群れから排除されない」ことが生命線だったが、現代社会では必須条件ではなくなっている。にもかかわらず、人が「承認を求めるのは当然だ」と感じてしまうのはなぜか。
本稿では、承認欲求の歴史的・思想的な扱いから心理学の議論、そして資本主義との関係までを概観しながら、「承認欲求は本能なのか」という根源的な問いについて考える。最終的には「承認欲求に拘泥する必要はない」という結論に至るが、その背景にある諸要因を知ることが、承認欲求とのつき合い方を考えるうえでの鍵となるはずだ。
2.承認欲求の歴史と思想
承認欲求が人間にとって不可欠なものか、それとも克服すべき弱さかという問いは、古今東西で繰り返し論じられてきた。古代ギリシャの哲学から近代思想、さらに現代の心理学や自己啓発論にいたるまで、多様な視点から検討されており、その評価は時代や思想によって大きく揺れ動いている。以下では、代表的な議論の流れを概観しながら、承認欲求が「是か非か」という問題について考察する。
古代の視点
ギリシャ哲学
プラトンは人間の魂を三部分に分け、そのうちの「気概(θυμός)」が名誉や栄誉を求める衝動を担うとした。プラトンにとって重要なのは、こうした衝動が理性によってコントロールされることである。一方、アリストテレスは、人間が名誉を求めることを自然な欲求と認めつつ、その「程よさ」を重視した。名誉欲が過剰であれば虚栄、不足すれば卑屈という悪徳となるが、適度であれば「高邁」という徳を育む。このように、古代ギリシャでは人間が他者からの承認や名誉を求めること自体は自然とされながらも、それをいかにコントロールするかが大きな課題とされたといえる。
儒教思想
孔子の教えでは、「人から認められないこと」を嘆くのではなく、自らの徳を磨くことが重視される。たとえば「人に知られなくとも怒らず」という言葉に象徴されるように、他者の評価を直接求める態度を戒め、自身の徳を高めることこそが真に尊いとされた。したがって、承認欲求を全面的に否定するわけではないが、他人からどう見られるかよりも自己修養を重んじる考え方である。
仏教
仏教においては、他者からの承認や名誉を求める欲求は、八風(世間法)のうち「名声」と「称賛」に該当する煩悩とされる。初期仏教から大乗仏教に至るまで、ブッダや祖師たちは一貫して「称賛・非難に左右されない心」や「他者の評価を超えた内的平安」を理想としてきた。仏教心理学的に見れば、承認欲求は自我(我執)や慢心を強めるため、悟りに近づくには手放すことが重要とされる。
すなわち、仏教的な生き方の要点は、承認を得られれば喜び、得られなければ落ち込むといった二元的思考から離れるところにある。賞賛・非難を含む一切の現象を「無常・無我・空」と洞察し、他者からの承認に依存すること自体を煩悩として克服すべき対象とみなすのである。
ヒンドゥー教
古代インドの思想においても、究極的には自我(エゴ)を超えることが理想とされた。『バガヴァッド・ギーター』には「名誉や不名誉に動じない平静こそ神に愛される姿」という教えがあり、他者評価への執着から解放される境地が讃えられている。一方で、武人にとっては不名誉が死よりも苦しいと説くくだりもあり、人間社会におけるリアルな名誉欲も同時に認められている。要するに、名誉欲を否定はしないが、最終的にはそれを超克して平安を得ることが理想とされたのである。
中世から近代の視点
キリスト教思想
中世キリスト教では、他者からの称賛や愛を求める「虚栄心」や「傲慢」が罪として警戒され、神の愛こそが真に求めるべき承認だと説かれた。アウグスティヌスは「他人に恐れられたい、愛されたい」という欲求を自己の弱さ(原罪)と捉え、神の慈悲によってのみ救われるとしている。また、トマス・アクィナスも過度な名誉欲(虚栄)を高慢の温床となる「七つの大罪(capital vice)」のひとつと位置づけ、謙遜によって戒める必要があると主張した。
一方、ルネサンスに入ると世俗の営みや個人の才能が肯定的に評価され、名声や称賛を求めることが創造性の原動力ともみなされるようになる。中世の「謙遜」一辺倒の価値観からやや離れ、自己の栄誉を積極的に追求する姿勢も容認され始めたのがこの時代である。
近代哲学・心理学
ルソーは、人間は社会の出現とともに他者評価に依存するようになったとし、その「虚栄心(アムール=プロプレ)」が不平等や競争を生む原因だと批判した。しかし、これは完全に否定されるものではなく、適切な形での相互承認が人間の徳や幸福につながる可能性も示唆している。
ヘーゲルは「主人と奴隷の弁証法」で知られ、相互承認こそが人間の自由と自己意識を確立する鍵だと説いた。相手を支配しても真の承認は得られず、双方が独立した主体として互いを認め合う関係が理想とされる。ここでは承認欲求が社会の発展や歴史を動かす原動力として、肯定的に評価されているといえる。
フロイトの精神分析では、無意識の欲動の一端に「愛されたい」「認められたい」という欲求が含まれると考えられている。とりわけ、親からの承認が十分でない場合にはコンプレックスを生み出すなど、承認をめぐる問題が人格形成や神経症に深く関わることが示唆された。さらに、マズローの欲求段階説では、生理的・安全などの低次欲求が満たされた後に現れる基本欲求として「尊重(承認)欲求」が位置づけられ、自己実現へ向かうための重要なステップになるとされた。
現代社会における視点
自己啓発やカウンセリングの分野では、承認欲求に振り回されず自分らしく生きる姿勢が推奨されることが多い。アドラー心理学では「他者に認められようとするのをやめよ」というメッセージも打ち出され、承認を求めるあまり自分の人生を犠牲にしないよう戒めている。しかし、承認欲求を全面的に悪と断ずるのではなく、マズローのように「人間の健全な成長に不可欠な段階」として位置づけ、適度にコントロールしながら満たしていく考え方もある。現代ではSNSなどによって承認が可視化・数値化される時代となり、むしろこの欲求と上手につき合うことが一種の課題ともいえよう。
結論:どこに焦点を当てるか
歴史を振り返ると、承認欲求は人間が社会的存在であることの証であり、時に成長や発展を促す原動力ともされてきた。一方で、それに執着しすぎると虚栄や高慢、あるいは煩悩の源になるとも考えられている。古代ギリシャのように「程よさ」を求める立場、仏教やキリスト教のように欲求そのものを克服すべきと説く立場、近代のように相互承認を人間社会の基盤と認める立場など、評価は実に多種多様である。
最終的には、「承認欲求そのものに善悪はないが、それをいかにコントロールし、どこに価値の基準を置くか」が問われてきたと言えよう。承認欲求は、人間関係の潤滑油になる可能性を秘めている一方、行き過ぎれば自己喪失につながるリスクもはらんでいる。ゆえに「承認欲求は是か非か」という問いに対しては、歴史上の多くの思想家や宗教家が一貫して「それをどう扱うかこそが要点である」と示唆してきたとまとめられる。
3.承認欲求は本能か?
私としては、仏教の「承認欲求は煩悩のひとつ」とか、アドラーの「他者に認められようとするのをやめよ」というメッセージに共感する。しかし、承認欲求とは「やめよう」と思っただけで本当にやめられるものなのか、という疑問は残る。実際、承認欲求が人間の本能と呼ぶべき先天的な欲求なのか、それとも社会や文化によって形成される後天的なものなのかという議論は、心理学・生物学・社会学などの分野で盛んに行われてきた。
ここで少し回り道をして、「本能」という言葉の意味を整理しておきたい。生物学や心理学の分野では、本能について「生得的に組み込まれ、学習を必要とせず、全個体に共通して見られる行動や反応パターン」といった説明がされることが多い。たとえば、雛鳥の刷り込みや、哺乳類の授乳行動などが典型的な例だ。もっとも、実際には「習得」や「学習」がまったく介在しない行動は少なく、研究者によって定義は微妙に異なる。本稿では、便宜的に「生存に不可欠な、先天的な行動」という意味で「本能」という言葉を用いようと思う。
さて、承認欲求は本能なのか?結論から言えば、多くの研究は「承認欲求には先天的な土台がある一方で、後天的な要因がその表れ方や強さを大きく左右する」という折衷的な立場をとる。そこで以下では、進化論や発達心理学、社会文化的な視点、神経科学の知見を簡潔にまとめながら整理してみたい。
生物学・進化心理学の視点
人類が生存競争を繰り広げていた時代、集団から排除されることは生命線に関わる重大なリスクであった。このため「他者に受け入れられる」「仲間から認められる」といった行動が進化的に強化され、いわば先天的な「社会的報酬」を求めるシステムが形成されたと考えられる。霊長類の世界でも、毛づくろいなど「群れ内の受容」を維持する行動が数多く観察されるのは、その名残と言えよう。
発達心理学・神経科学の視点
乳幼児期の愛着形成でも、保護者からの肯定的な応答が得られるか否かが極めて重要とされる。「スティルフェイス実験」では、母親が無反応になると赤ん坊は泣き出すなど、早期から「他者の承認や応答」を求める行動が見られる。さらに、思春期には脳の報酬系が「仲間からの評価」に敏感になりやすく、SNSで「いいね」をもらうと、大人以上に強い快感や高揚感を得るといった研究結果も報告されている。こうした知見からは、承認欲求が生まれつきの神経回路と深く関わっていることがうかがえる。
社会学・文化心理学の視点
一方で、「何を承認とみなすか」「どのように承認されるか」が大きく変わるのは、社会や文化・技術の影響が極めて大きいことを示唆している。個人主義的文化では成果や個性を示して賞賛されることを重視する一方、集団主義的文化では目立たず和を乱さないことが尊ばれる。SNSが普及した現代では、「いいね」の数やフォロワー数といった数値化された承認が新たなモチベーションとなり、欲求を一層強める要因となっている。
結論としての折衷的立場
ここまで見てきたとおり、多くの学説や実験結果によれば、承認欲求には先天的な面と後天的な面の両方があると考えられているようだ。すなわち、人間は本能的に「他者の評価を気にかける」神経回路を生まれつき備えているものの、その具体的な形や強度は成育環境や所属文化、社会的背景によって大きく変わるというのである。
こうした研究や議論を総合すると、「承認欲求は生まれつきの要素がありながら、後天的にいくらでも変質し得る社会的欲求でもある」という“折衷的な立場”が導き出されている。このような折衷的な立場が、従来の学説や実験に基づく一般的な知見だといえよう。
4.社会が生み出す欲求としての承認
愛着と承認欲求の違い
一般には、「承認欲求には先天的・後天的両面がある」と折衷的に考えられている。多くの研究者は、人間が生得的に他者を意識する神経回路を備えつつも、社会や文化の影響で承認欲求の具体的な形や強さが変化すると指摘している。
しかし、私自身は「愛着」(先天的な仕組み)と「承認欲求」(学習による心理)を厳密に区別すべきだと考えている。愛着は赤ん坊が安全を確保するために不可欠な本能的システムであり、承認欲求は必ずしも生存と直結しない社会的欲望だからである。たとえば、ガチョウの雛の「刷り込み現象」は人間の赤ん坊にも類似する面があり、母親の顔を追いかけたり抱っこを求めて泣いたりするのは「安全基地」を得ようとする生得的行動で、本能と呼んでも差し支えない。しかし、この愛着と承認欲求を混同することはできない。
歴史的背景と現代社会の変化
承認欲求が「本能」だとしばしば言われるのは、人類が長いあいだ群れで生存してきた歴史に由来すると考えられる。狩猟採集の時代、群れから排除されることは死と隣り合わせのリスクだったため、他者から承認される(=群れの一員と見なされる)ことが生存の要となった。生後間もない赤ん坊であれ成人であれ、他者に見放されれば生き延びられなかった時代には、愛着と承認欲求を区別する意味はほとんどなかったといえる。
しかし、道具や言語、社会制度などが発達して人類は優位な地位を確立し、現代社会――とりわけ日本のような先進国――では「会社で嫌われたら生きていけない」という表現も比喩にすぎなくなった。もはや、生存そのもののために他者の承認が絶対不可欠という段階は過ぎ去ったのである。
日常を振り返っても、承認欲求が「社会的評価基準」に左右されていることは明白だ。たとえば、会社勤めの人にとって昇進や給与は上司や同僚からの評価に直結するため、その承認を強く意識する。しかし、隣の会社の社員の評価を気にすることはまずないし、転職すれば新たな評価基準へあっさり切り替わる。すなわち、承認欲求は特定の組織や人間関係と連動し、環境が変わればその対象も移ろう。通常、このような可変性の高いものを「本能」とは呼ばない。
資本主義がもたらす承認欲求の強化
現代社会では、とりわけ承認欲求と資本主義の親和性が高いとされる。その一例は、消費者側の承認欲求である。高級ブランドを身に着けたり、SNS映えする写真を投稿したりする行為は、いわゆる「衒示的消費(conspicuous consumption)」の典型であり、自分のステータスを周囲に示して称賛を得たいという欲求が、多様な商品やサービスの需要をかき立て、ひいては市場の拡大につながっていく。
同時に、供給者側の承認欲求も新たな商品やサービスを生み出す原動力となる。「評価されたい」「名を残したい」といった思いが、革新的な技術やデザインを次々に生み出す競争を後押しするからだ。こうした需要と供給の両面において、承認欲求が資本主義のエンジンとして機能していると考えられる。
ちなみに、承認欲求が作品やサービスの「価値」を高める動きは、近代以降に始まったわけではない。ルネサンス期には、芸術家が自作に署名し、名誉や評価を積極的に追求する姿が顕著になった。たとえばダ・ビンチは作品を通じて名声を確立し、パトロンの支援を得ることで新たな挑戦に踏み出したと言われる。歴史を振り返ると、承認欲求こそが「資本主義の精神」を形づくった原動力だと見てもあながち的外れではないだろう。
承認欲求もう、捨てる?
ここまで示してきたように、承認欲求は先天的な本能ではなく、社会の仕組みが生み出し、増幅してきた後天的な欲望である。しかし、現代の資本主義社会において、他者の評価を糧に成長を図ることは有効な戦略でもあり、そこに疑問を持たないのであれば無理に手放す必要はない。
一方で、「もう承認欲求に振り回されたくない」と思う人は、社会から一定の距離を取ることが鍵になる。しかし、資本主義下ではお金がなければ生活が立ちゆかないのも事実だ。何らかの形で承認を得なければ収入を得ることは難しく、「資本主義から離れようとするには、まず資本が必要」という矛盾がある。私自身、50代になって承認欲求が以前より小さくなったと感じるのは、ある程度の経済的余裕が生まれたからでもある。見方を変えれば、環境次第で人は承認欲求をかなり手放せる可能性があるといえそうだ。
いずれにせよ、承認欲求が「絶対不可欠な本能」ではないと知るだけでも気は楽になる。たとえ「認められなければ生きていけない」と感じても、それは太古の時代に群れることでしか生き延びられなかった生存戦略の名残、あるいは資本主義による常識の刷り込みに過ぎない。テクノロジーが今後飛躍的に進化して、すべての人の生存が保障されるような未来が訪れれば、承認欲求という概念自体が希少なものになるだろう。
とはいえ、そのようなユートピアは現状ただちに実現するわけではない。承認欲求を「捨てなければならない」と思い詰めることは、「お金に意味などないから全部捨ててしまえ」という極端な発想に近い。承認欲求が人を苦しめる面があるのは事実だが、それを完全に捨てるとなると、今度は生活を維持するハードルが上がりすぎるおそれがある。
学習された思考パターン
ここで強調しておきたいのは、「承認欲求」という言葉が、あたかも自分の意志で選び取ったもののように聞こえる点だ。しかし実際には、ここまで見てきたように、人間は愛着という本能的システムを起点にしつつ、社会や文化の中でさまざまな学習を経て「承認を求める」心理を形成している。
言い換えれば、承認欲求とは学習によって身についた思考パターンだ。ひとつは、乳児期に「泣いたら抱っこしてもらえた」「笑顔を見せたら周囲にかわいがられた」といった愛着行動の成功体験が土台になっている。もうひとつは、成長の過程で身につけた「褒められると嬉しい」「評価されないと不安」という社会的学習である。
だからこそ、考え方を見直し、少し社会との距離をとってみるだけでも、思考パターンをまったく別の形に作り替えることは不可能ではない。実際、社会や文化が変化すれば、「当たり前」や「評価基準」もあっさりと変わりうる。どのみち社会は絶えず移ろいゆくものだ。そうであるならば、自分が本当に望んでいるのか、社会にそう思わされているだけなのか――それを問い直すだけで、心の自由を取り戻すきっかけになるだろう。
「心の自由を取り戻す」とか言いながら、「自由意志はない」論者です。
移ろいゆく社会の行く末についてはこちらをどうぞ。
「本能」について。