見出し画像

「記号接地問題」はそもそも存在しない

本稿では、「記号接地問題(Symbol Grounding Problem)」が、従来しばしば指摘されるほどの根本的難問ではなく、実はすでに解決済み、あるいはそもそも独立した問題としては存在しない、という立場を示す。すなわち、従来の議論は人間中心主義的・哲学的な前提に縛られすぎているという考え方である。結局のところ、この主張は「どこまでを記号接地問題と呼ぶのか」という定義範囲の問題に収斂するため、その点を踏まえつつ議論を整理していく。

「記号接地問題」とは何か

記号接地問題とは、スティーブン・ハルナッドらが提起した「シンボル(記号)がいかにして実世界の意味と結び付くのか」という問いを指す。具体的には、辞書を引き続けるように記号の定義を別の記号で説明するだけでは、どこまでいっても意味の循環から抜け出せない。では、「リンゴ」「車」「病変」といったラベルが実世界の対象と対応していることをどう保証するのか、という問題意識である。

ただし、この問いは (1) AI研究の観点から見ると「コンピュータがどのように外界の情報を取り込み、内部表現と対応づけるか」という課題にあたり、(2) 哲学や認知科学の観点から見ると「そもそも『意味』『理解』とは何か」という壮大な問題に行き着く。後者まで含めると「意識」や「クオリア」などの領域にも踏み込むことになり、そこで議論が大きく混乱している側面がある。本稿の主張は、この二つをはっきり切り分けるべきだというものであり、そうしてしまえば「記号接地問題」と呼べるような独立した問題は存在しないことが明らかになるというわけだ。

実用上はすでに個別に解決されている

自動運転、医療画像診断、翻訳サービス、音声認識など、現代のAIは多くのタスクで人間に匹敵するか、あるいはそれを上回る成果を上げている。いずれも、「システム内部の記号(モデル内部の表現)が、実世界の対象や概念と十分に対応している」からこそ成り立つ。たとえば自動運転では、カメラやLiDARデータを用いて「車線」「歩行者」「信号」「他車」といった要素を正しく認識・区別し、適切な行動を選択している。

もし記号接地問題が「AIは実世界の意味をつかめず、ただ空回りする」という根源的な壁だとするのなら、こうした実用化の進展は本来なら不可能なはずだ。もちろんエラーがまったくないわけではないが、莫大なデータとアルゴリズムの発達によって、少なくとも個別タスクの範囲内では「外界との対応付けを事実上クリアした」とみなせる水準に達している。

たとえば囲碁AIは「囲碁というルール世界」において、盤上の石の配置と実際の着手(記号)を対応させているからこそ、人間のプロ棋士を凌駕する打ち手を生み出せる。医療画像診断AIは「X線画像やMRI画像」という入力と「病変ラベル」の対応を学習し、それによって診断業務に大いに貢献している。これらの事例は、「記号接地問題」がよく言われるほどの絶対的障壁ではなく、すでに個々の領域では解決されていることを示している。

しばしば指摘されるのは、「未知の事象や未学習の環境に直面すると、単なる統計的パターン学習では対処できない」という論点だ。ここで「未知の状況に対応できないのは“真の意味理解”がないからだ」という主張がなされる。しかし実際には、追加データの収集や新しいアルゴリズムの導入などによって学習を拡張することで、ある程度は未知の対象を扱う能力を高められる。

人間の場合も、本質的には未知の事象に対して万能ではない。未知の病原体やまったく新しい科学現象などに遭遇したとき、即座に柔軟な概念再編を行えるかといえば、多くの場合は試行錯誤や検証を通じて徐々に知識を蓄積していく必要がある。これはAIが追加学習で対応を向上させるプロセスと大きくは変わらない。

要するに、未知事象への対処がうまくいかないのは“真の意味を理解していない”証拠ではなく、単に学習データや経験が不足しているという状況にすぎない。実際、領域が限定されている場面ではAIはすでに相当な性能を示しており、未知の事象にも学習次第で対応を広げられる。そこに“記号接地の根本的欠如”という概念を持ち出す必然性は薄いと言える。

哲学的には「理解とは何か」に還元される

サールの「中国語の部屋」など、多くの哲学的思考実験は「形式的な計算だけで本当の理解が成り立つのか」を問う。しかし結局は「理解(meaning, semantics)とは何か」を厳密に定義できないまま、この種の議論は堂々巡りを続けてきた。

「記号接地問題」が「無限に辞書を引き続ける循環をどう断ち切るか」という形で強調される場合でも、「意味」や「意識」の本質をどう位置づけるかが定まらなければ先へ進んでいかない。したがって、記号接地問題が提示する問いは、最終的に「理解の哲学」や「意識の問題」に収斂していく。そこまで含めて一体の問題にすると、当然ながら「未解決の壮大なテーマ」となるが、それはもはや記号接地問題に限った話ではない。

一方、AI研究や工学的応用においては、「システムの振る舞いがタスクを達成しているかどうか」という操作的基準によって「意味」や「理解」を評価することが多い。言い換えれば、「誤診を減らす」「質問に適切に答える」などの成果が得られれば、それを「システムが理解した」とみなすわけである。そこに哲学的な“真の意味”の有無を問い続ける必然性は、実務上は認められない。

人間同士でも、子供が言葉を覚えたかどうかは、その使い方や受け答えの適切さで判断し、「深い意味理解」があるかを厳密に測ることはしない。行動上の観察ができれば十分と見なしているのだ。ここからも、記号接地問題を「解決不能の大問題」と呼ぶ必要性は薄いと言えよう。

人間中心主義バイアスと定義の問題

記号接地問題を論じる際、「人間は身体を通じて自然に世界と結び付き、AIは単なる記号操作にとどまる」という二分図式がしばしば提示される。しかし、そこには「人間社会が人間の身体に最適化されている」という事実を見落とした、人間中心主義的なバイアスが潜んでいる。

たとえば、ドアノブを例に考えてみよう。一般的なドアノブは、人間の手の形状や握力に合わせて設計されているため、初めて見るドアでも人は直感的に「つかんで回す」「引く」といった操作を理解しやすい。これは自分の身体を“自己参照”して周囲の物を把握できる身体性の利点と言える。一方、ロボットのアームやセンサーは形状・仕様が異なるため、同じドアノブを使いこなすにはあらかじめ学習・調整が必要になるかもしれない。

しかし、もし環境が“ロボットに最適化”された取っ手やインターフェースで統一されていれば、AI側が有利になる可能性もある。結局、人間中心の社会では「身体性」という仕組みが自然に通用しているだけなのに、それを根拠に「人間は接地できているがAIはできていない」と結論づけるのは、評価基準を人間に合わせているだけだとも言える。

さらに、環境がまったく異なる場合を想定すれば、必ずしも人間が優位とは限らない。たとえば重力や大気組成が異なる未知の惑星や、地球外生命体(宇宙人)の社会に直面するような状況を考えてみよう。そこでは、人間が当然と思っている身体的メタファーや社会的習慣が通用せず、逆に柔軟にセンサーやアルゴリズムを組み替えられるAIのほうが、現地の環境や文化に速やかに適応できる可能性すらある。

こうした例からも明らかなように、「人間社会に最適化された環境」から一歩外へ出れば、人間がすんなり「接地」できるという保証はない。にもかかわらず、記号接地問題を“身体性”の欠如や“社会的文脈の非共有”からAIを批判する形で語るのは、まさに人間中心主義的な発想の産物と言える。

言い換えれば、「どの社会・身体・文化を標準とするか」によって、何をもって「接地」と呼ぶかは変わってくる。身体や社会的ルールをすべて人間基準で考えれば、当然「人間のほうが自然に記号を接地している」ように見えてしまう。要するに、「身体性の欠如によってAIが意味を理解できない」という図式は、“人間社会に最適化された世界”を当たり前の前提としているがゆえに成り立つ議論であり、普遍的な視点とは言いがたい。

したがって、記号接地問題を“根本的難問”として位置づける根拠は大きく揺らぐ。「身体性を持つ人間こそ真の意味を理解できる」という主張は、実のところ「人間同士の社会的文脈で見るかぎり、人間には自己参照の優位性がある」という程度のことにすぎない。言い換えれば、環境やルールの設計次第で優位性は変わり得るのであり、それを「接地の本質」と呼ぶのは人間中心主義的すぎると言えよう。

結論:記号接地問題は「AIのそれ」に限定すれば解決済み

以上を踏まえると、「記号接地問題」は定義の射程によって捉え方が大きく異なる。

  • 狭義のAI文脈
    外界のデータとシステム内部の表現を結び付ける方法論の探究が中心であり、個別タスクの学習やロボットのセンサ情報などを活用すれば、多くの場面で十分に機能している。未知シナリオへの適応も学習アルゴリズムの拡張によってある程度可能であり、少なくとも「解決不能の根本的壁」とは言えない。事実上「解決済み」に近い状況と言えるだろう。

  • 哲学的文脈(人間や意識を含む広義の問題)
    記号接地を「生物や人間の意識・意味がどのように生まれるか」というテーマまで広げて定義すると、脳科学や意識研究、認知哲学といった大きな未解決問題が現れる。ここでは「理解とは何か」という根源的問いに直面し、「記号接地問題」という枠組みを超えて、より壮大な哲学的テーマへと移行してしまう。

本稿が強調したいのは、「AI文脈」においてはすでに数多くの技術が社会実装され、高度な水準で外界情報との対応付けが実現している以上、そこに“記号接地問題”と呼ばれる決定的な障壁は見当たらないということである。一方、「人間の意識の本質」や「理解の起源」を問うレベルまで話を拡大すれば、当然ながら未解明の哲学的領域に踏み込むことになる。

要するに、AI工学的には記号接地問題は事実上解決済みであり、残る哲学的大問題は「人間を含む意味の起源論」にほかならない。両者を混同すると「根本的な大問題」と見えがちだが、そこには人間中心主義的バイアスや「意味・意識とは何か」という別次元の問いが含まれているにすぎない。したがって、独立した問題としての「記号接地問題」は、実態としては、そもそも存在しないのである。


参考:「別次元の問い」として棚上げした分はこちら。