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サヨナラはその日まで

夏祭りの夜。薄暗い小道を抜けると、目の前に賑やかな提灯の光が広がった。浴衣姿の人々が屋台を行き交い、楽しげな笑い声や、遠くから響く太鼓の音が空気を満たしている。

○○は人混みの中をふらりと歩いていた。懐かしい夏の匂い――焼きそばの香ばしさ、金魚すくいの水槽から漂う涼しげな匂い、そして甘いりんご飴の香り。それらが鼻をくすぐり、彼の記憶を蘇らせた。子供の頃、地元の夏祭りで父と母と遊んだ日々。けれど、その思い出に浸りきる前に、ふと視線が一人の女性に吸い寄せられた。

金魚すくいの屋台。その傍らで、涼やかな水色の浴衣をまとった女性が膝をついて金魚鉢を眺めている。浴衣に施された金魚の柄が、彼女自身の優雅な佇まいと相まって、まるで一幅の絵のようだった。○○は、思わず足を止めた。

「……これで、今年の夏も終わりね。」


女性が小さな声で呟いた。風に揺れる鈴のようなその声に、○○の胸がわずかにざわつく。寂しげで、けれどどこか暖かさを感じさせるその声。彼は、そのまま立ち去ることができなかった。

友香:あっ、すみません。道を塞いでしまいましたか?

彼女がふいに顔を上げる。その瞬間、○○の視界には、夏の夜空に浮かぶ一番星のような瞳が映り込んだ。黒い瞳がやわらかく輝き、浴衣姿の彼女をさらに美しく見せていた。

○○:い、いえ……そんなことないです。

しどろもどろになりながら答える○○を見て、彼女は控えめに微笑んだ。その笑顔にはどこか上品さがありながらも、親しみやすさが感じられた。

友香:金魚、好きなんですか?

彼女がそっと手にしている小さな金魚鉢。その中で赤と白の金魚が、ゆったりと泳いでいる。

○○:えっと……見るのは好きですけど、実は金魚すくいは苦手なんです。すぐにポイを破っちゃって……

友香:ふふっ、それ、よくありますよね。私も、昔は何匹も逃がしてばっかりでした。でも、何度もやってたらコツが掴めてきて……ほら、こうやって。

彼女は自分の金魚鉢を指しながら、嬉しそうに微笑む。その仕草が自然体で、飾らない彼女の人柄を表しているようだった。

○○:すごいですね。そんなにたくさん……もう、プロみたいです。

友香:そんなことないですよ。ただ、金魚を見てると落ち着くから、つい夢中になっちゃうだけで。

彼女の瞳が金魚鉢に向けられる。その眼差しはどこか遠くを見ているようで、○○は無意識にその表情を目に焼き付けていた。

翌週の日曜日、○○は偶然近所のカフェで彼女に再会した。窓際の席で、本を片手にコーヒーを飲む彼女。祭りの夜とは違うシンプルな服装だったが、上品な雰囲気は変わらない。迷うことなく彼女に声をかけた。

○○:あの……祭りのときの、金魚の方ですよね?

友香は一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐに微笑んだ。

友香:あ、覚えていてくれたんですね。あのときはどうも。

少しの間、二人はテーブルを挟んで話した。友香がどんな風に育ったのか、どんな趣味を持っているのか、彼女の話はどこか物語のようで、○○を引き込んだ。

○○:それにしても、すごく落ち着いてますよね。何というか……お嬢様みたいな雰囲気があるというか。

友香:えっ、そんなことないですよ。ただ、家がちょっと厳しかっただけで……小さい頃から礼儀作法とかをみっちり教え込まれてたんです。

照れたように笑う彼女。その仕草にも品の良さが滲み出ていて、○○はますます彼女に惹かれていった。

それから二人は、偶然を重ねるようにして出会いを続けた。あるときは図書館で、あるときは駅のホームで。友香は彼との会話を楽しんでいる様子だったが、どこか一線を引いているようにも見えた。

友香:……私、○○さんみたいな人とこんな風に話すの、久しぶりなんです。

○○:え、そうなんですか?

友香:普段はあまり人に本音を話さないから。どうしてでしょうね。○○さんには、つい……

その言葉に、○○は胸の奥が温かくなるのを感じた。それまで自分の中でくすぶっていた感情が、少しずつ形を成し始めていた。

しかし、彼女の心の中には、どうしても埋められない壁があった。友香の家は名家であり、彼女には将来を見据えた「ある約束」があることを、○○は次第に知ることになる。

それでも○○は、友香に自分の想いを伝えようと決意する。

○○:友香さん……俺は、あなたが好きです。

夜の川沿い、静かな風の中で、○○は全ての想いを言葉にした。

友香:……○○さん、ありがとう。でも、私には……

川沿いに響いた○○の告白に、友香はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、揺れるような感情が確かに宿っていた。しかし、その奥には一枚の薄い壁があり、○○はそれを感じ取った。

○○:友香さん……本当の気持ちを聞かせてほしいんだ。

友香:私、本当に嬉しかったです。○○さんと出会って、たくさんのことを話せて。こうして好きだと言ってもらえるなんて……夢みたい。

そう言いながら、友香はそっと目を伏せた。

友香:でも、私は……あなたと一緒にいる未来を、選ぶことができないんです。

○○:どうして? 何があっても、俺は――

言葉を続けようとした○○を、友香は軽く首を振って制した。その仕草に、○○は初めて彼女の「覚悟」を感じた。

友香:○○さん、私は……家族の期待に応える義務があるんです。

彼女の家は、古くからの名家だった。伝統を守り続けることを家訓とし、彼女の結婚もその枠の中で決められている――そんな話を、○○は以前に少しだけ聞いたことがあった。

○○:そんなこと……そんなことで、友香さんが幸せになれるの?

友香:分からない。でも、私は小さい頃からずっと、そうするものだと思って生きてきました。

その声には、どこか諦めとともに、確固たる意志が混ざっていた。○○は拳を握りしめながら、その場で言葉を失った。

それからしばらく、二人の間には静寂が訪れた。夜風が吹き抜け、川面が月明かりにきらめく。金魚すくいで出会ったあの日から、今日までの思い出が○○の胸をよぎる。

○○:……俺には、どうすることもできないのかな。

友香:○○さんは何も悪くありません。むしろ、私をこんなにも大切に思ってくれて……それだけで十分です。

彼女はそう言うと、そっと微笑み、○○に背を向けた。その姿は、彼の記憶に焼き付くように美しかった。

○○:友香さん……!

思わず声を上げたが、友香は振り返らなかった。ただ一言、小さく言葉を残して去っていく。

友香:さよなら、○○さん。

その瞬間、○○の中で何かが崩れるような音がした。

それから数年が経った。○○は、あの夏祭りの日々を忘れることはなかった。友香との時間は、彼の中でいつまでも色鮮やかに残り続けていた。

ある日のこと。○○は仕事帰りに立ち寄った街の小さな美術館で、偶然「金魚」をテーマにした展示会を見つけた。懐かしさに誘われ、ふらりと中へ入ると、一枚の絵に目が止まった。

そこには、美しく描かれた金魚とともに、どこか見覚えのある女性の姿があった。浴衣をまとい、穏やかな笑みを浮かべるその女性――絵のタイトルには「夏のきらめき」と記されていた。

○○:……友香さん?

信じられない思いで画家の名前を確認すると、そこには「菅井友香」と記されていた。彼女が描いたのだろうか。絵の下には、短いメッセージが添えられていた。

「あなたとの夏の日々を、私は忘れません。」


その言葉を目にした瞬間、○○は胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。あの日、友香が去った理由、彼女の決意、そして彼に残したもの――すべてが、この絵とメッセージに込められているように感じた。

○○はしばらくその場を動けなかった。けれど、彼は静かに微笑み、最後に心の中でつぶやいた。

○○:ありがとう、友香さん。俺も忘れない。

その夏の日の記憶とともに、○○は前を向いて歩き出した。彼の心には、二度と戻ることのない輝く思い出が、永遠に刻まれていた。

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