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君と奏でる未来
初めて彼女と出会ったのは、夏の終わりだった。
○○は仕事帰りに立ち寄った小さな劇場のロビーで、ふと聞こえてきたピアノの旋律に足を止めた。
夜の静けさに溶け込むような美しい音色。音に導かれるようにして、彼はそっとドアを開けた。
舞台の上には、一人の女性がいた。
白いブラウスにシンプルな黒のパンツ。肩までの髪がわずかに揺れながら、彼女はピアノの鍵盤に指を滑らせていた。
その表情は、まるで別世界にいるかのように穏やかで、しかしどこか切なげだった。
演奏が終わると、○○は思わず拍手をしていた。
絵梨花:……聞いてたの?
驚いたようにこちらを見る彼女。
○○:ごめん、あまりに綺麗な音だったから……つい
絵梨花:ふーん。まぁ、別にいいけど
彼女はピアノの蓋を閉じ、立ち上がった。
○○:ここ、関係者以外立ち入り禁止とかじゃないよね?
絵梨花:そんなわけないでしょ。この劇場、今は稽古に使われてるだけだから
○○:じゃあ、君は……
絵梨花:ミュージカル女優。まぁ、まだまだ駆け出しだけど
そう言って微笑む彼女の顔に、○○はどこか見覚えがあった。テレビや舞台の広告で何度か目にしたことがある。
○○:すごいな、プロの演奏をこんな間近で聞けるなんて
絵梨花:……プロって言われるほどじゃないけどね
彼女は肩をすくめながら、控えめに笑った。
だが、その目の奥には強い決意のようなものが宿っていた。
それが、彼と彼女の出会いだった。
それからというもの、○○は彼女の舞台を観に行くようになった。
歌声も、演技も、すべてが彼を魅了した。
ある日、公演の終わりに楽屋前で待っていると、彼女が出てきた。
絵梨花:……また来たの?
○○:だって、君の舞台を観るのが楽しみになっちゃったから
絵梨花:……お世辞はいいって
○○:本気だよ
そう言うと、彼女は少し困ったような顔をした後、ふっと笑った。
絵梨花:まったく……変な人
○○:それ、褒めてる?
絵梨花:さあね
そんなふうに少しずつ距離が縮まっていった。
ある日、彼女がぽつりと呟いた。
絵梨花:……私ね、子供のころからずっと舞台に立つのが夢だったんだ
○○:うん
絵梨花:だから、どんなに辛くても、どんなに苦しくても、簡単には諦められない
○○:……そっか
彼女の目は真剣だった。
彼は思った。この人は、夢のために生きているんだ、と。
季節が巡り、二人はより親しくなっていった。
だが、ある日の夜。彼女から突然、連絡が来た。
絵梨花:○○、ちょっと会えない?
待ち合わせ場所に向かうと、彼女は珍しく弱った顔をしていた。
○○:どうしたの?
絵梨花:……最近、思うようにいかなくて
○○:何かあった?
絵梨花:うまく歌えないの。何度やっても、自分の理想に届かなくて……
○○は、静かに彼女の手を取った。
○○:焦らなくていい。絵梨花の努力は、必ず報われるよ
絵梨花:……そんな簡単なものじゃないよ
○○:それでも、俺は絵梨花を信じてる
彼女は驚いたように○○を見つめ、それから少しだけ微笑んだ。
絵梨花:……ありがと
その夜、彼女の手の震えが少しだけ和らいだ気がした。
やがて、彼女の努力が実り、大きな舞台で主演を務めることが決まった。
○○も心から喜んだ。
しかし、彼女は複雑な顔をしていた。
絵梨花:○○……私、これからもっと忙しくなる
○○:うん
絵梨花:もしかしたら、しばらく会えないかもしれない
○○は寂しさを感じたが、それ以上に彼女の夢を応援したいと思った。
だから、笑顔で言った。
○○:頑張れ。絵梨花なら絶対、大丈夫だよ
絵梨花:……ほんとに?
○○:うん。だって、君は生田絵梨花なんだから
彼女の目が、少し潤んだ気がした。
そして、公演初日。
○○は最前列で彼女を見つめていた。
幕が上がり、彼女が舞台に立つ。
その姿は、眩しいほどに輝いていた。
歌も、演技も、すべてが完璧だった。
そして、カーテンコール。
スタンディングオベーションの中、彼女は客席を見渡し──○○を見つけた。
その瞬間、彼女は満面の笑みを浮かべ、そっと口の動きで言った。
ありがとう
○○は、それに静かに微笑み返した。
そして、終演後。
楽屋に向かうと、彼女が待っていた。
絵梨花:……見てくれた?
○○:もちろん。最高だったよ
絵梨花:ふふっ……よかった
彼女は、ほっとしたように笑った。
そして、次の瞬間──
彼女は、そっと○○の手を握った。
絵梨花:……これからも、私のそばにいてくれる?
○○:……当たり前だろ
その夜、彼は彼女の手をしっかりと握り返した。
舞台の上でも、舞台の外でも。
彼女の未来が、これからも輝き続けるように。
それからの彼女は、目まぐるしく忙しい日々を送っていた。
主演を務めたミュージカルは大成功を収め、彼女の名はさらに世間に知れ渡ることとなる。テレビ出演、インタビュー、次々と舞い込むオファー──。
○○はそんな彼女をそっと見守りながら、自分にできることを考えていた。
彼女の一番の味方でいること。
忙しくても、会えなくても、彼女が立ち止まりそうになったとき、支えになれる存在でいること。
そんなある日。
彼はふと、彼女との最初の出会いを思い出していた。
──夏の終わりの小さな劇場。
──静かに響くピアノの旋律。
──彼女の切なげな表情。
あの頃、彼女は夢を追いながら、どこか孤独を感じていたのかもしれない。
だけど、今は違う。
彼女にはたくさんの観客がいて、仲間がいて、そして──自分もいる。
そのことを、言葉にして伝えたくなった。
そんなある日、久しぶりに彼女と会うことになった。
場所は、最初に出会ったあの劇場。
「たまにはピアノが弾きたくなった」と、彼女が提案したのだった。
誰もいない劇場。彼女は舞台の上に立ち、鍵盤にそっと指を置く。
優しい旋律が流れ出す。
○○は、静かにそれを聴いていた。
絵梨花:……ねぇ、○○
○○:うん?
絵梨花:最近、ふと思うことがあるんだ
○○:なに?
彼女は鍵盤から手を離し、ふっと微笑んだ。
絵梨花:夢って、一人で叶えるものじゃないんだなって
○○は、彼女の言葉を静かに噛みしめた。
○○:……そうかもね
絵梨花:あの頃は、ずっと一人で戦わなきゃって思ってた。でも、今は違う。私のそばには、たくさんの人がいる
彼女の視線が、真っ直ぐに○○を捉える。
絵梨花:……特に、○○がいてくれたから
○○は驚いて、彼女を見つめた。
○○:……俺?
絵梨花:そう。○○がいつも私のことを見てくれてた。どんなに忙しくても、どんなに落ち込んでても……
彼女は少し照れくさそうに笑った。
絵梨花:私、○○のことが好きだよ
心臓が、大きく跳ねた。
○○は、思わず息を呑んだ。
彼女がこんなに素直に気持ちを伝えるのは、珍しい。
けれど──
○○:……俺も、絵梨花が好きだよ
その言葉を聞いた瞬間、彼女は大きく目を見開いた。
それから、ふわりと微笑んだ。
絵梨花:……そっか
二人は静かに見つめ合い、舞台の上でそっと手を繋いだ。
舞台のライトも、観客の拍手もない。
けれど、この瞬間だけは、彼らだけの特別なステージだった。
それからの二人は、公私ともに支え合いながら、かけがえのない時間を過ごしていった。
もちろん、彼女の仕事は相変わらず忙しい。
時にはすれ違うこともあった。
けれど、それでも二人は決して離れることはなかった。
彼女は歌い続け、演じ続けた。
そして、そのたびに○○は客席で彼女を見守り続けた。
やがて、彼女は舞台の上で、また新しい夢を語るようになった。
絵梨花:私ね、もっとたくさんの人に歌を届けたいの
○○:うん
絵梨花:いつか、海外の舞台にも立ってみたい
○○:いいね、きっと叶うよ
彼は、彼女の未来を信じていた。
──そして、彼女もまた、彼と共に歩む未来を信じていた。
ある日の夜。
彼は、彼女のためにこっそりとプレゼントを用意していた。
小さなケースに入った、美しいピアノのペンダント。
○○:これ、君に
絵梨花:え……?
彼女は驚きながら、それを手に取る。
絵梨花:これって……
○○:ピアノ。絵梨花の大切なものだから
彼女は、それをじっと見つめ──そして、そっと首にかけた。
絵梨花:……ありがとう
○○:これからも、ずっと応援してるから
絵梨花:……うん
彼女は嬉しそうに微笑み、静かに○○の肩にもたれた。
外では、冬の星空が輝いていた。
どこまでも続く夜空のように、彼女の未来もまた、果てしなく広がっている。
彼は、そんな彼女を、これからもずっと見守っていくと誓った。
──彼女の夢が続く限り。
──彼女が歌い続ける限り。
そして、彼女もまた願った。
──この先もずっと、彼のそばで笑っていられますように。