遠ざかる星の記憶
森田ひかるは、昔から感情を表に出すのが得意ではなかった。心の中に渦巻く感情が強くなるほど、逆にそれを隠してしまう癖があった。冷静に見える彼女のその表情の裏には、誰にも見せない孤独や不安が巣食っていた。それでも、大学生活の単調な日々は、彼女にとって安心感を与えてくれるものだった。何も起こらない、変化のない日常こそが、彼女にとっての居場所だった。
そんなひかるの生活に、一人の男性が現れた。〇〇との出会いは、ほんの偶然だった。大学の図書館で、ふとしたことで声をかけられた。
ひかる:「そこの席、空いてる?」
〇〇:「ああ、どうぞ。」
無機質なやり取り。だが、それが二人の関係の始まりだった。彼は、ひかるが借りようとしていた本に興味を持ち、そこから自然と会話が始まった。
〇〇:「その本、結構難しいけど面白いよね。僕も読んでたよ。」
彼はそう言って微笑んだ。ひかるは少しだけ戸惑いながらも、つい話に引き込まれてしまった。それまで、人との関わりを避けてきた彼女にとって、〇〇との会話は新鮮で、そして少しだけ心地よいものだった。次第に彼女は、図書館に行く度に彼と会うことが楽しみになっていった。
図書館で顔を合わせるたび、二人は他愛もない話をするようになった。哲学や文学、大学生活のことなど、話題は尽きることがなかった。ひかるは自分が少しずつ彼に心を開いていくことに気づいていた。しかし、それが「恋愛感情」であると自覚するまでには、まだ時間がかかった。
ある日、ひかるは〇〇に誘われて、カフェに行くことになった。静かな店内で、二人は向かい合って座り、温かいコーヒーを飲んだ。冬の冷たい風が吹きつける外とは対照的に、店内は暖かく、心地よい空間だった。
〇〇:「ひかる、普段どんな本を読むの?」
ひかる:「うーん、難しいのは得意じゃないけん、割と軽めの小説とか。」
ふと、森田は無意識に博多弁が出てしまったことに気づき、顔が赤くなった。〇〇はその様子を見て、少し驚いた表情を浮かべたが、すぐに優しく微笑んだ。
〇〇:「博多弁、かわいいね。普段は使わないの?」
ひかる:「あんまり使わんね…、恥ずかしかけん。」
そう言って、ひかるはさらに顔を赤くした。〇〇は彼女のそんな一面を面白がるように、笑顔を浮かべていた。
それからの二人の関係は、より親密になっていった。図書館での会話だけでなく、カフェや街を一緒に歩く時間も増え、〇〇の存在はひかるにとって、特別なものへと変わっていった。だが、その感情が大きくなればなるほど、ひかるは不安を感じ始めていた。
ある日の夕方、二人は図書館から出て、キャンパスの外れにある公園を歩いていた。寒さが強まる中、冬の夜は静かに訪れていた。
〇〇:「今日は寒いね。ひかる、大丈夫?」
ひかる:「平気。でも、〇〇はどう?寒くない?」
〇〇:「僕? んー、寒いけど、ひかるが隣にいると暖かく感じるよ。」
そんな言葉に、森田は顔を赤らめた。〇〇の言葉が心に響くたびに、森田はどうしていいかわからなくなる。彼への気持ちが、ただの友人以上のものであることを自覚していたのだが、その感情をどう表現していいのか、彼女にはわからなかった。
公園のベンチに座り、二人はしばらく無言で夜空を見上げていた。冷たい空気の中、森田は〇〇の隣にいることが心地よかった。しかし、同時に不安が心を締め付けていた。彼がいつか自分の前からいなくなってしまうのではないかという漠然とした恐怖が、彼女を包んでいたのだ。
そして、その不安は現実となる。
冬が深まり、クリスマスが近づくころ、〇〇は突然ひかるの前から姿を消した。最初は、彼が忙しいのだと思っていた。試験やレポートに追われているのかもしれない、と彼女は自分に言い聞かせていた。しかし、時間が経つにつれて、彼からの連絡は一切なくなり、森田は次第に不安と悲しみに押しつぶされていった。
彼がいなくなった日々は、まるで何もかもが灰色に変わったようだった。〇〇がいなくなってしまった理由を彼女は知ることができなかった。何度もメッセージを送っても、返事はなく、まるで彼がこの世界から消えてしまったかのようだった。
そんなある日、森田は偶然にも〇〇を見かけることになる。彼の隣には、別の女性がいた。彼女は〇のと楽しそうに話し、笑っていた。その光景は、まるで森田の心を切り裂くようだった。彼女の心の中で、彼に対する想いが膨らんでいたからこそ、その現実を直視することができなかった。
森田はその場に立ち尽くし、ただ静かに二人を見つめていた。〇〇は彼女に気づくこともなく、ただその女性と笑顔で歩き去っていった。
(何も言えなかった私がいけなかったのかもしれない)
森田は心の中でそう呟いた。〇〇に対する感情を、もっと早く伝えていれば、何かが変わっていたのだろうか。彼が他の誰かを選んだ理由は、彼女にはわからないままだった。
夜空を見上げると、遠くに星が瞬いていた。その光は、〇〇との思い出を象徴しているかのように、彼女の手の届かない場所へと消えていった。
冷たい冬の風が、彼女の頬を撫でる。
森田は静かに歩き出した。〇〇との思い出は、まるで遠ざかる星のように、彼女の心の中でかすかな光を残しながらも、次第に消えていった。もう、振り返ることはない。彼のいない未来に向かって、森田は歩みを進めるしかなかった。
「さようなら…。」
その言葉は、冷たい夜風に乗って、彼女の心の中で静かに響いた。