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月が綺麗な夜に
初夏の風が、川辺の緑をそっと揺らしていた。○○と由依は、ゆっくりとした足取りで並んで歩いていた。昼間の蒸し暑さがようやく和らぎ、肌に感じる夜風が心地よい。川沿いの遊歩道には人影もまばらで、時折すれ違うのは散歩を楽しむ高齢の夫婦か、ランニング中の若者だけだった。
○○は少しだけ緊張していた。彼にとって、由依と二人でこうして歩くのは、どこか特別な意味を持っていた。以前は友人たちも交えて何度か出かけることはあったが、二人きりで出かけるのは今日が初めてだった。
――この瞬間を、ずっと待っていた。けれど、どう伝えればいいんだろう。
○○の視線は自然と隣を歩く由依の横顔に向けられた。肩までのストレートヘアが風に揺れ、その表情はどこか穏やかで、けれど少しだけ物憂げだった。
○○は、少し前に読んだ本の一節を思い出していた。
――「I love you」を「我君を愛す」と訳した学生に対して、夏目漱石が「日本人ならそうは言わない。『月が綺麗ですね』と言いなさい」と諭した話。
日本人らしい奥ゆかしさ、感情を直接言葉にせず、それでも相手に心を伝えるための美しい言い回し。この言葉を、自分の想いを伝えるために使いたいと、ずっと思っていた。
しかし、いざその時が近づくと、彼の胸には不安が押し寄せてきた。由依はどう感じるのだろう?この言葉を理解してくれるだろうか?いや、そもそも自分の気持ちを彼女に伝える資格があるのだろうか?
○○:由依、少し座ろうか。
○○の言葉に、由依は軽くうなずいた。二人は遊歩道脇にあるベンチに腰を下ろした。目の前には川がゆったりと流れ、その向こうには緑の木々が月明かりに照らされている。
由依:ここ、静かでいいね。○○はよく来るの?
○○:うん、考え事したいときに時々来るんだ。君と来るのは初めてだけど。
由依は小さく笑った。
由依:そうなんだ。確かに、落ち着く場所だね。
○○はその笑顔に少し救われたような気がした。由依がリラックスしているなら、自分も少しだけ肩の力を抜いてもいい。
夜空を見上げると、月が満ちていた。その淡い光が二人を包み込み、どこか幻想的な雰囲気を醸し出している。
○○:月が、綺麗だね。
その言葉に、由依はしばらく空を見上げたままだった。そして、静かに口を開いた。
由依:そうだね。…でも、○○が言いたいのは、それだけじゃないでしょ?
○○は驚いて由依を見た。彼女の瞳は月明かりを受けて、静かに輝いていた。その中に、自分への信頼と期待が含まれているように感じた。
○○:…うん。僕、ずっと君に伝えたいことがあったんだ。
○○は、心の中に秘めていた想いを言葉に乗せた。そして再び、由依の瞳を真っ直ぐ見つめて言った。
○○:月が綺麗ですね。
その一言に、由依は軽く目を見開いた。しかし、次の瞬間、彼女の唇には柔らかな笑みが浮かんだ。まるで○○の言葉をずっと待っていたかのように。
由依:…死んでもいいわ。
二人の間に静かな時間が流れた。その一瞬が、すべてを言葉以上に語っていた。言葉では伝えきれない想いが、お互いの心に深く染み込んでいく。
川面には満月が映り、その光が波のように揺れていた。風がまた、二人の間をそっと通り過ぎていく。
その夜、彼らの心には新たな絆が生まれた。そしてその絆は、月明かりの下で静かに輝いていた。
言葉を交わし終えた後、二人はしばらく無言で夜空を見上げていた。月は相変わらず高く輝き、夜の静けさが二人を包み込む。
○○の胸は、まだ少し高鳴っていた。由依の「死んでもいいわ」という言葉が、彼の心に深く刻まれている。彼女の想いを知ることができたことへの喜びと、その重みをしっかりと受け止めたいという決意が、彼の中に静かに燃えていた。
由依:○○。
○○:うん?
由依:私ね、今日こうして話せてよかったよ。普段は自分の気持ちを表に出すのが苦手だけど、○○がいてくれると、なんだか自然にいられるの。
彼女はそう言いながら、少し照れくさそうに視線を下げた。その仕草に○○は、ますます彼女のことを大切に思う気持ちが膨らんでいく。
○○:僕もだよ、由依。君といると、自分らしくいられる気がする。こうして一緒にいられる時間を、大切にしたいと思ってる。
やがて、夜も更け始めた。川沿いの道を歩く人の姿もまばらになり、遠くで虫の鳴き声だけが響いている。
由依:そろそろ帰ろっか。
○○:うん、そうだね。
二人は立ち上がり、再び歩き始めた。静かな夜道を、肩を並べて進む。その道の先に何が待っているのかはわからない。それでも、二人ならどんな未来も一緒に歩いていける、そんな確信が○○の胸にはあった。
ふと、由依が笑いながら言った。
由依:そういえば、「月が綺麗ですね」って言葉、どこかで聞いたことがある気がするんだけど…。
○○:ああ、夏目漱石の話だよ。彼が「I love you」をそう訳したんだって。
由依:ふふ、洒落てるよね。日本語って奥深いなあ。
そう言いながら、由依はまた夜空を見上げた。○○も一緒に月を見つめる。ふたりの心に流れるのは、言葉にはならないけれど確かに伝わる、深い愛情だった。
その夜、別れ際に再び立ち止まった二人は、最後の挨拶を交わした。
由依:今日はありがとう。○○と一緒に過ごせて、本当に楽しかった。
○○:僕もだよ。これからも、こうして一緒にいろんな景色を見ていけたらいいな。
由依はその言葉に微笑み、静かにうなずいた。
別れ際、ふと○○は振り返り、もう一度だけ言葉を紡いだ。
○○:おやすみ、由依。
由依は一瞬驚いたようだったが、すぐに柔らかい笑みを浮かべた。そして静かに、けれどしっかりと応えた。
由依:おやすみなさい、○○。
その言葉を最後に、二人はそれぞれの道へと歩き出した。
川沿いの静かな夜道。月明かりに照らされた彼らの背中が、やがて遠くに消えていく。
けれど、その心には確かに、永遠に続く絆が宿っていた。