神は悪魔よりも多くの人間を殺した。
多様性やダイバーシティという言葉はどれほど社会に馴染んだだろうか。こういった概念に反応するかのように他者に不寛容な人が増えてきたように思うが、それはなぜだろうか。
実状はあらゆる存在の差異を認めることができる。あらゆるものが自分とは異なるということは至極あたりまえのことだ。私とあなたも、あの犬も、その猫も、いまここにあるかもしれないコロナウイルスも。自分とは異なる存在で、まったく理解に及ばないのである。それはそういう現実でしかない。昨今行われている議論は社会的な規範として、その差異をどの程度認めるのかという認識の問題である。
その議論の軸になるのは「心地よさ」あるいは「正当性」や「倫理観」といった、主観的な価値観である。「心地よさ」も「正当性」も「倫理観」も人によって異なるので、どの程度認めるかという規範はとても曖昧なものになり、大抵議論になっていないように思う。
しかし最終的には大衆化された社会的な価値観により、規範は形成される。それは一定の範囲の人々の公益を得るため、暴力を排除する暴力として表れる。どれほど多くの人の利益になろうとも、個人にとっては暴力でしかない力が、その規範の外にいる人々に降りかかる。(例えば殺人鬼にとっては、それが個人の多様なあり方のひとつとして捉えているならば、殺人が罪に問われ、罰を与えられることは不条理なことなのかもしれない。)
私たちは、そういった個々の主観的価値観の積み重ねによって、誰かに暴力をふるっていることを自覚しなければいけないし、それを反省する必要がある。聖書の中では、悪魔が人を殺した数よりも、神の方が圧倒的に多くの人間を殺しているらしい。まさに「正当性」や「倫理観」といった価値観が持つ暴力性の怖さを表しているように思う。