suga_2
早速のお返事ありがとう。
この交換日記の内容には特別意図はなくて、互いの日々の考えごとを交換できないかということなので気楽にやってもらえたら嬉しいです。
それに政治やニュースに対する態度や関心の度合いの違いとかはあまり関係ないので安心してください。
大野くんが以前の制作の続きをしていると聞き、勝手にうれしくなりました。そして君の投稿を見て、自分の知らない世界や価値観、感情を得るときに物語というのはすごく重要なワードだなと改めて考えていました。
大野くんがおじいさんに対して持っている感情や制作を通して見える興味が、ぼくにとってはまだ共感性のあるものでないのかもしれないという感覚があります。そういった未知に対峙したときに、ぼくたちはよく既存の言葉を駆使したりして、より詳しく、より正確にそれを掴み取ろうとします。そして時には自身の経験とその未知を照らし合わせたりします。このときに物語性=ナラティブが有効に働くと、未知の体験を自分の体験として変換してくれたりします。そういった一連の流れが生まれると未知だったものを自分の感覚として享受することができ、ときには心に突き刺さるような強烈な印象を与えることができるのだと思います。
ナラティブな作品が目指すのはこういう、強烈な共感だと思いますが、ナラティブが逆に働くこともあると考えました。現代の倫理観では「羊たちの沈黙」を観て、ハンニバル・レクターのような猟奇殺人犯に共感する人は少ないと思うのですが、それは自身の経験に基づいた変換が起きないからだと思います。そういった自身の経験に変換不可能なものを目の当たりにしたときに大きい反発を生むことがあります。それは強烈な分断を生み、無理解を助長させます。あいちトリエンナーレはそれの典型例とも言えます。
表現は人の心をまとめることもできるし、分かつこともできるとても扱いの難しいものなのだと再確認しました。そして物語は人間の状態を大きく左右する重要なファクターとなっているようです。大野くんのおじいさんの話や桜をめぐる物語がどのように、観る人に作用するのかとても楽しみです。
ぼくは最近「コンクリート」についての作品を作っています。それはこれまで「凪」として表現してきたものと同じものを表しています。具体的には三陸地方の防波堤へ写真を撮りに行きました。それをコンクリートの板にプリントしています。この防波堤は地震や津波などを想起させるシンボリックな建造物ですが、もっと広く捉えれば、アメリカとメキシコの国境の壁も同じような役割を持っていると思うし、イージス・アショアのような国防の盾となるものとも共通するところがあると考えています。それは抽象的なコンクリートであり、変化を防ぐための壁、変化の反動から生まれる建造物です。固定した世界作り出すコンクリート(抽象)を写真という時間切り取り固定する手法でコンクリート(具象)にプリントするという作品です。気持ちとしてはそういう変化を防ぐものに否定的ですが、反動が生まれることもどこかで理解しているつもりです。ただ何か違うやり方を探したいということをずっと考えているのだと思います。なのでこの作品には続きが必要です。続きを一生懸命考えています。
そういえば、「凪の国」では政治的スタンスの違いで観た人の意見が別れることがないように作っていたように思います。あちら側とこちら側というように二分してしまったものを反転させても、同じような感覚を味わえるような物語にしたつもりです。コンクリートについての作品でも政治的なスタンスは関係なく、抽象的なコンクリートに対する気持ちを転換させたり、いつの間にか関係のない話にシフトすることで問題をすり替えるということを実践しようとしているのだと思いました。「問題のすり替え」というと悪いことのようなイメージがありますが、実は論点がズレているという場合に、凝り固まった思考をそこから解放する手段としては案外悪いことではないのかなと思いました。
ここまで記した話では物語性とは少し異なるところで作品を作っていますが、実は作品の続きの部分の最終的な段階ではフランケンシュタインの物語に接続していくような流れを考えています。この話はめちゃくちゃ長くなりそうなので割愛しますが、その物語によってコンクリートによって固められたものが、柔らかく、そして弱くなっていくことを受け入れられる感覚を共感できたらと思っています。